時代に逆らい「自分がいいと思うもの」を追求してきた“還暦の音楽狂”が、現代の日本の若者へ伝えたいこと

Text: Noemi Minami

Photography: Reo Takahashi

LOCATION PROVIDED BY Bonobo

2018.3.9

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経済がバブルのように膨らみ続け、その恩恵を受けた人々は豪遊し、異常な高揚感が日本に漂っていた80年代、ヨーロッパには違った空気が流れていた。

冷戦の影響をダイレクトに受けたヨーロッパ諸国のなかでも一国が西(資本主義)と東(社会主義)の二つに分断されていたドイツは極端だったといえる。

経済的に発展し自由を謳う西ドイツとは対照的に、映画や音楽などのカルチャーさえも検閲されていた東ドイツ。ドイツ北東部に位置する都市ベルリンにいたっては町内に存在する大きな壁を境に、西と東に全く異なる世界が広がっていた。

西ドイツの住民すら近寄ろうとしない東ドイツのなかの孤島と化したそのベルリンに、ガードの目を盗み西から東へと音楽を“密輸”する、あるイギリス人の男がいた。

ベルリンの壁をすり抜け音楽を“密輸”した男

70年代後半から80年代後半にかけて、自由を謳歌する西ベルリンから厳しく統制された東ベルリンに音楽を“密輸”していた男の名はMark Reeder(マーク・リーダー)。

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マーク・リーダー

Be inspired!の姉妹メディアHEAPSでは2017年5月からマークのベルリンでの回想録を半年にわたり連載した。

▶︎【連載】「ベルリンの壁をすり抜けた“音楽密輸人”」 鋼鉄の東にブツ(パンク)を運んだ男、マーク・リーダーの回想録(完結)

そして2018年2月、満を持してマークが来日。1982年に西ベルリンで始まり、音と光を実験的な表現で探索するフェスティバルBerlin AtonalとHEAPSの共催で、映画上映とトークイベントが行われた。

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Photography: Takahisa Yamashita

今回Be inspired!は、来日中のマークに単独インタビューを決行。現代の日本の若者へ、カルチャーの歴史の重要な節々で最前線に立っていた男からのメッセージを預かった。

マーク・リーダーって何者?

詳しくはぜひHEAPSの連載を読んで欲しいが、マーク・リーダーが何者かをまず簡単に説明したい。

「ぼくが西のディスコで聞いたハイ・エナジーミュージック(1980年代初期にディスコやクラブで人気を集めたダンス・ミュージックの一種)のテープをバーナード・サムナー(ニュー・オーダーのヴォーカル)に渡していなかったら『ブルー・マンデー』はおそらく生まれていなかっただろう」

そうHEAPSの連載で話したマーク。

80年代に生まれ、世界的にヒットした伝説的な一曲、英バンド ニュー・オーダーの『ブルー・マンデイ』(マークいわく、それまでクラブに行っても音楽を聞いているだけだった白人男性を初めてダンスフロアで躍らせた重要な一曲)がこの男なしには存在してなかったといえば、80年代のカルチャーシーンでのマークの存在感が想像できるかもしれない。

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ニュー・オーダーの前身であるジョイ・ディビジョンのメンバーと。
Photo via Mark Reeder / HEAPS Magazine連載で掲載

イギリスの北部、工業都市マンチェスターに生まれたマークは70年代後半にドイツ、ベルリンに移り住む。そこでは、音楽が規制されていた東ベルリンに西からカセットを密輸していた。

「ただしどこに隠したかは教えられない」と今だに密輸経路を明かしてくれないマークだが、彼はカセットの密輸にとどまらず、なんとパンクバンドをまるごと密輸(?)し、音楽に飢えていた東の若者のために、教会で違法ライブも成し遂げた。

当時本国イギリスで人気を誇っていたテレビ音楽番組『The Tube(ザ・チューブ)』がマークの偉業を聞きつけて、西ベルリンに出張し地元のミュージックシーンを紹介する“特別番組”を作りたいと言ってきたときは、東ドイツの政府を巧みに騙し、東ベルリンのバンドをThe Tubeに出演させた。

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英音楽番組『The Tube』のインタビュアー、ミュリエル・グレイと。
Photo via Mark Reeder/ HEAPS Magazine連載で掲載

80年代後半、東ドイツの政府は知る由もなく時代はベルリンの壁の崩壊に近づくなか、東ドイツで生まれた人気バンドを政府が制御できず、管轄下に置くためにレコーディングが行われることが決まった。そのとき、レコーディングの指揮をとるように政府から任命されたのも、この男。

そして歴史的な年となった1991年、冷戦の終わりを象徴するベルリンの壁の崩壊の日が訪れると、東西キッズは同じダンスフロアで、同じ曲で踊るようになった。そのとき生まれたのがテクノであり、いち早くテクノレーベル「Masterminded For Success(マスターマインデッド・フォー・サクセス)」を立ち上げたのもマークだった。

70年代後半から80年代後半にかけて、数多くの不可能を可能にし、ベルリン、そしてマンチェスターのカルチャーの最前線にいたマーク。今回Be inspired!に話してくれたマンチェスター時代の話からも、マーク・リーダーという男がなぜ常にカルチャーの最前線に立っていたのかが垣間見られる。

マンチェスターには未来がなかった

ティーンエージャーの頃、工場がどんどん閉鎖しはじめたんだ*1。みんな鬱っぽくなったね。マンチェスターには未来がなかった。それで、たくさんの若者が音楽を始めたんだ。それは、ただただ退屈だったから。お金もない、仕事もない、何もすることがない、だから若いやつはみんな失業手当をせっせと貯めて安いギターか、運が良ければアンプを買ったりした。何か人生の目的が必要だったんだ。

(*1)1960年からイギリスは経済成長が長期的に停滞していた。諸外国からは「イギリス病」と称された。

マンチェスター時代についてうかがうと、そう話し出したマーク。それでも自分は「恵まれていたほうだった」と言う。

まだティーンエージャーだったマークは、通いつめていたレコードショップ「ヴァージン・レコード」で仕事をもらう。

そのレコードショップはヒッピーが運営しててね。ドラッグの匂いを隠すために店内はいつも芳香剤の香りが漂ってた。その当時は理由は知らなかったけどね。でもぼくはとにかくしょっちゅう通ってたんだ。郊外の実家からマンチェスターに数時間かけて行って、その店に一日中居座って新しいレコードを聞いていた。レコードショップの大人はこんなガキが店に来て夢中になってレコードを聞いてるのを面白いと思ったんだろうね、いろいろ教えてくれたんだ。

ある日、人手が必要だったスタッフはマークに手伝いを頼む。そのときの支払い方法はレコード。「どうせお金をもらってもレコードを買っていたから理にかなっていた」と話すマークだが、そのうち正式に働くこととなる。

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時は流れ、ヒッピーがメインストリームだったマンチェスターに突如パンクが到来する。

ある日ロンドンのセックスピストルズってバンドがラディカルだってどこかで読んだんだ。すごく興味を持った。どっかの新聞にはそいつらが老人に唾をはいたって書いてあるんだ。「やるじゃないか」って思ったね

店にセックスピストルズと並び3大パンクの一つに数えられるThe damned (ダムド)のレコードが入荷するとマークはすぐに夢中になる。

The damnedってバンドのレコードが店に入ってきて「なんだこれは!」ってなったんだよ。まず、すごく短くてさ。その頃は複雑な音楽がいいものとされていて、うんざりしてきたとこだった。人気の絶頂だったYES(イエス)のアルバム『Tales from Topographic Oceans(海洋地形学の物語)』は片面だけで25分とかなんだよ、なのにThe damnedのレコードは立ったの2分半。3分ですらない。

それまで主流だった音楽とはまったく異なるこの新しい音楽を受け入れられなかったヒッピーの店員たちは次々に辞めていった。それでも「生」のパンクに魅力を見出したマークは最後、一人っきりになりながらもパンクを店で売り続ける。

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あまりにも過激だったパンクは当時のイギリス社会に受け入れられずテレビやラジオでの放送が禁止されていた。マークの働いていたヴァージンレコードだけが売り続けていたため、すぐにマンチェスターのその店はパンクの溜まり場となっていった。大手レコード会社が売らないようなパンクを売る店がある、という事実がメインストリームではない音楽を作るバンドたちの新しい扉となった。

パンクのおかげでみんなが数万で自分のレコードがリリースできるってことがわかったんだ。ヴァージンでなら売れるって。だからマンチェスターのヴァージンレコードに国中からバンドが集まった。「俺らのレコードを売ってくれないか」ってね。それで俺は「いいよ」って全部売ってた。だからみんな(バズコックスやマガジンなど今は伝説的な70年代後半から80年代にかけて活躍したバンドたち)と知り合ったんだ。エキサイティングだったね。マンチェスターで唯一だっていうのもよかった。店はいつも人でいっぱいだった。

しかし一人っきりでレコードショップを運営するのは容易なことではない。始発でマンチェスターに向かい、一週間分の在庫を調達して、店に行き、午前9時から午後5時半まで店番して、店を閉めたら、レコードを整理してレジを精算。毎日16時間ぐらい働いていたそうだ。本社に助けを求めると送られてきたのはドラッグ。「スピード」を摂取すれば、寝ずに働ける。想像もできないような話だが、イギリスのこの時代を表しているかもしれない。

そんな日々の繰り返しで骸骨のようになった息子をみて、マークの母は店を辞めることを勧める。そのアドバイスを受け、マークは店を辞めベルリンに行くことを決意したそうだ。

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マークのマンチェスター、パンク到来時代の話からはベルリンの偉業に通づるマーク・リーダーという男のエッセンスが垣間見られる。

セックスピストルズの「アナーキー・イン・ザ・U.K」のレコードを手に入れたとき、パーティーに行ってかければフロアのみんなが死ぬほど盛り上がるぞなんて思ってたら、フロアはヒッピーだらけで、そのなかでもすごいでかい図体したやつが「なんだそのゴミみたいな音楽は」って言って、ぼくのレコードにタバコを押し付けたんだ。そいつがでかすぎてぼくは何もできなかったけどね。まあ、それがパンクロックに対する当時の大衆の反応だった。

誰にも注目されていなかったベルリンの可能性をいち早く信じ移住したことや、大衆に受け入れられなかったパンクを信じ発信し続けたこの「自分がいいと思ったらまわりの反応は気にしない」という精神こそが、結果的に現代から振り返ると伝説となった、ベルリンやマンチェスターのカルチャーシーンの最前線にマークが立っていた理由だろう。

現代の若者にマーク・リーダーが伝えたいこと

60年代、70年代、80年代、90年代、それぞれの時代ごとにスタイルと音楽が頭に浮かぶ。しかし、21世紀を迎え、「2000年代といったらこれだ」「2010年代といったこれだ」といえるようなものがないと指摘するマーク。

しかし新しいものを生み出すのにはリスクがともなう。受け入れられないかもしれないし、クレイジーだと思われるかもしれない。特に日本では「出る杭は打たれる」というぐらいだから新しいことを始めるのは社会の風潮を考えても難しい。そんな状況をマークに話すと、マークが母からもらったアドバイスを教えてくれた。それは「もし一回挑戦してうまくいかないなら、もう一度挑戦しなさい」。

みんな“最初の人”になるのを恐れてる。みんながやってることをやるほうが簡単だから。それが問題だよね。何かを生み出して、挑戦するのは簡単じゃない。でも成功するかどうかは問題じゃないんだ。失敗したっていい。挑戦はしたんだからね。もしそれでうまくいかなかったら、もう一度挑戦するんだ。一回目で何が失敗だったのかをちゃんと学んでね。自分を幸せにするための科学みたいなもんだよ。科学者だって成功するまで何度も失敗してる。

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 非常にシンプルなアドバイスだが、「何度も挑戦すれば成功するかもしれない。もし成功しなくても、挑戦という冒険が大切な存在になる」と話す男が、常にカルチャーの最先端に立っていたことを思い出すと説得力が増す。

数十年後のキッズが憧れるような時代を自分たちで作っていきたくないか?

そう私たちに問いかけるマークから学べば、「まわりがなんと言おうと自分がいいと思うのはいい」という態度こそが、そんな時代を切り開くのに必要なのかもしれない。

※こちらはBe inspired!に掲載された記事です。2018年10月1日にBe inspired!はリニューアルし、NEUTになりました。

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