「人は曖昧なものであっていい」。個人の揺らぎは普遍だと語るクィアアーティストの考える“クィア”の定義|Lost in Sexuality vol.2

Text: SHIORI KIRIGAYA

Photography: Ahida Agirre unless otherwise stated.

2019.4.23

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Lost in Sexuality

4月の特集は、「Lost in Sexuality」。

「セクシュアリティにルールはない。迷ってもいいし、変わってもいいし、何か一つに決めなくていい」。

そんなことを伝えるため、NEUTはセクシュアリティがわからなくなった人や、それが変化することのある人、セクシュアリティのカテゴリーに対して疑問を抱く人のストーリーを届けます。

▶︎プロローグ

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日々起こるパーソナルな出来事や思いを書き連ねたZINEの制作や、フィクションを混ぜ込んだ自作の詞を趣深くギターで弾き語りする蛭田竜太(ひるた りゅうた)。一年ほど前からは自らを「クィアアーティスト」と名乗るようになり、現在では書籍とZINEの翻訳・出版プロジェクト「C.I.P. Books」*1と自身の過去のZINEと、新たな書き下ろしをまとめた文芸書の制作を年内の刊行を目指して進めている。今回はそんな蛭田個人のストーリーから、“クィア”というキーワードを通して、セクシュアリティに限らず個人の生き方の多様性を考えていきたい。

ちなみに過去に発表したZINEは「あまりにもパーソナルなことを書き連ねていて、自分ではもう読み返したくない」と思い、売り切ったり配り切ったりしたものは再度印刷しないようにしているため手元になく、書籍化にあたって友人たちからかき集めている最中だという。

(*1)著名なモダニスト作家の影で周縁に追いやられていた妻や愛人たちの人生に、著者が自らの境遇に重ねて綴ったブログを書籍化した作品『ヒロインズ』(ケイト・ザンブレノ著)を2018年に出版したことで知られる。同書の装丁はイラストレーター・コミック作家のカナイフユキが担当した。

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蛭田竜太

何か一つに決めなくていいし、自由でいていい

労働時間や賃金、ジェンダー規範のこと。社会の問題に関心を抱くようになったのは、つい最近のことだった。それまで蛭田は、自分の身の回りのことで精一杯で「社会全体の問題をあまり自分ごとに思えていなかった」。しかし、社会で起きていることへの関心が高い友人たちの話を聞いているうちに考えが変化し、徐々に個人的なことが政治的・社会的なことにつながると意識するようになる。自身のことを「未熟で勉強不足」と語るが「それでも社会について何か言ってもいい」との思いから、この頃から「クィアアーティスト」と名乗り始めた。

クィアアーティストと名乗ることは、自分のなかで個人的なこととを社会的なこととをつなげる手がかりにもなっている。

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ではクィアアーティストという側面からみて、蛭田のいう「クィア」は何を意味しているのだろう。この言葉は一般的には、あらゆるセクシュアリティのカテゴリーの間にいることを意味したり、セクシュアルマイノリティの総称として使われたりしている。

「何か一つに決めなくていいこと」とかそんなイメージ。結局名前をつけているけれど、幅を持たせたいというのがあって、もっと自由でいいし、そうでありたいと思っている。

クィアといえばセクシュアリティの話になってしまいがちだが、もっと俯瞰したとらえ方もできる。どこかに自分を当てはめずにいることを表すと同時に、言葉にしたときに説明しきれずこぼれ落ちてしまうものや、日々生じてしまう個人の内面の揺らぎまでを包容した言葉が、蛭田の考える「クィア」なのかもしれない。

あらゆる要素が重なったからこその現在の自分

セクシュアリティもジェンダーも「自らオープンにすることない」。これは本人の制作におけるスタンスとも合致している。目に見える形で社会問題を提起するアーティストもいるなか、直接的な言及はせず、自分自身のことを語ることでゆくゆくは社会問題に行きつく表現をするスタイルをとっている。それが蛭田の立場だが、覚えている限りセクシュアリティの面でも些細な変化をしてきた自身を「クィア」とする。これには何かの言葉に当てはめず自由で余白のある、そんなセクシュアリティでありたいという思いが同時にある。

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音楽の趣味が変わったり服の趣味が変わったりするのと同じなだけで、自分のセクシュアリティが「常に変わっているもの」だって特別な意識はないですね。

自身についてそう語っていたが体調や精神状態、日々の経験からくる、そのときどきの自分の状態を構成する要素の一つとしてセクシュアリティがあってセクシュアリティだけを取り立てて個人のアイデンティティを語ることのほうが不自然であると話す。

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蛭田がこれまでに制作したZINE

これまでの経験とか、それこそ吸収してきたカルチャーとかまわりの友人とかが作用してていて、何か一つ出来事があれば受け入れられなかったのかもしれないし、結果として自分を受け入れられていたというのにすぎないですね

あらゆる要素が絡み合って現時点の自分があることをふまえ、日々身の回りで起きていることや考えたことについても「いろんな要素を絡めて語っていくこと」を蛭田は表現を通して行う。

“何者でもない人”の声こそ発信してほしい

社会の問題について直接的に言及することはないが、自分のおかれた立場から、あらゆる要素と絡み合わせて物事を語る。蛭田がとる立場を言葉で表してみると、このようなところだろうか。本人は活動を通して、セクシュアリティに限らず自分に「しっくりくる」ものや手段、方法を選べばいいというメッセージを体現しているように思える。

僕は僕のおかれた環境なり立場から語ることが大事だと思っていて。それってできるのがその人個人だけだし。本当にそれぞれの話が聞きたいですよね。

一般社会に表れている個人のリプレゼンテーションは限られたものであるから、知れ渡ることのない個人の体験が実際には大多数だ。だがそれらの話が可視化されることにより、発信する者だけでなく、受けた側の個人の気持ちを楽にすることもある。もし蛭田の活動のように表に出ないストーリーを他人に向けて表現したいと考えたとき、経済力やコネクションがあるかどうか、手段を知っているかいないかの違いで差が出てしまうことは否めない。だが、そこで個展を開くことは難しくてもZINEを制作して発表することは比較的誰にでもとれる手段なのだ。それに表現力は関係なく、作り手がアート界において“何者”かである必要はない。

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だが発信したい気持ちはあっても、「他の人がもうやっているから、自分なんかが作っても」と思い込んでやめてしまう人もいる。これに対して蛭田は、たとえばビートルズと同じ環境にいて同じ楽器を持っていて、同等の歌唱力があったとしても、どれだけ好きな気持ちがあっても同じ曲は作れないように、誰かが発表したものと同一のものを他人が作ることは不可能だと指摘する。どうしたって「その人のもの」になるため、気にする必要はないということだ。

蛭田が影響を受けたものの一つ、1990年代の「渋谷系」の音楽では引用やサンプリングという手法がみられるように、言ってしまえば出尽くしているカルチャーを参考に自分の表現を試みるのは自然だ。自分のまわりにあるものに影響されながら変化する自分という存在を表現することに価値はあるし、それは蛭田のいう「クィア」のように、どこかに既存のカテゴリーに当てはまる必要もなく、曖昧なものであってもいい。

語りたいことがあるならなおさら、それぞれに語ってほしいそういう意味で、幅のつけかたとか、曖昧さ、溢れ落ちてしまうものがあってもいい、特定のジャンルに入らなくていいって考え方がクィアという言葉と通じるかなって思いますけどね。

蛭田竜太(Ryuta Hiruta)

TwitterInstagramYouTube

クィア・アーティスト、シンガー・ソング・ライター、ジンスタ。2015年よりジンの制作を始め、以降不定期に新作を発表し続ける。並行して17年よりシンガー・ソング・ライターとしての活動を始め、ライブを中心に活動を続ける。18年には「TOKYO ZINESTER GATHERING 2018」へのライブ出演を果たしたほか、写真家・ミヤギフトシのシリーズ作品「感光」に出演するなど、活動の幅を広げている。
19年内に自身初の著書をC.I.P. Booksより刊行予定。

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