こんにちは、タニムラリサです。私は大学でフェムバタイジングと呼ばれる、女性のエンパワーメントなどフェミニズム的メッセージを用いた広告手法について学んだのち、外資系のファッションブランドや化粧品メーカーでマーケターとして働いていました。そんな経験をいかして、広告やフェミニズムについての記事を書いたりしています。
この記事では、広告を取り巻く状況、実体験を踏まえた広告が女性自身や、女性に対する見方に与える影響と、これからの広告がどうなっていくのか、といった話をしたいと思います。

溢れる広告と私たち
あなたは私たちが一日に目にする広告や企業メッセージ等の数を知っているだろうか?とあるマーケットリサーチ会社の2007年の調査では5000、また別の調査では4000から10000といった数字が示されている。(参照元:Forbes, Inside Radio)この数字はいわゆる純広告だけではなく、ブランドロゴなども含めた広義の広告や企業コミュニケーションを含めたものだが、スマートフォンとデジタル広告が台頭する今、私たちが1日に目にする広告の数は、あながち程遠いものではないかもしれないし、もっと多いとも推測できる。広告ブロックアプリが2年連続でiTunes有料アプリランキングで一位を獲得しているという状況も、いかに私たちが日々多くの広告に悩まされているかという事実の何よりもの証拠かもしれない。
40年以上にわたり、広告の影響を研究し続けてきたアメリカの広告批評家のJean Kilbourne(ジーン・キルボーン)によると、私たちが日々広告や様々なメディアで目にするイメージは、私たちの思い描く自身の理想像に無意識下に影響を与え、その影響は特に女性の間で顕著だという。(参照元:TEDx Talks)
化粧品から食品にいたるまで、ありとあらゆる広告のなかのフォトショップされた美しく「完璧な」女性のイメージは、スマホの画面から電車の中まで、日常生活のありとあらゆる所で繰り返し繰り返し映し出され、決して意識していなくとも、私たちの無意識に蓄積されていき、私たちが見た目も、行動も「完璧な」彼女たちのようにならなくてはいけないと訴えかけているのだ。

現にフランスでは、完璧に加工された身体のイメージが、若者の自信や自己肯定感を著しく損うとして、フォトショップされたモデルの写真を使った広告は、写真が加工されたものであると表記しないと広告提供者に莫大な罰金が課されるという法律が、2017年に成立された。(参照元:The Independent)
イギリスでも、広告イメージが人々に与える心理的影響への懸念から、「運転が下手な女性」や「家事をしない男性」といったジェンダーステレオタイプを強調するような広告がまさに2019年6月から禁止された。(参照元:The Guardian)
私自身と広告
別に広告になんて目もくれない、という人もいるだろう。私だって、自分が無条件的に、無防備に晒されている広告の影響を受けているとは思いたくない。それでもふと、この文章を書きながら、小学生の頃テレビで観た、少女向けシャンプーのCMの「セクシーなの?キュートなの?どっちがすきなの〜」というCMソングが頭の中で流れて、それまで水色が好きでポケモンにしか興味のなかったような自分が(う〜ん、セクシーかキュートだったらまだキュートの方がいいかな、なんて思って)親にそのシャンプーを買ってくれるよう懇願したのを思い出した。
本当はそこに、セクシーかキュート以外のクールとかスマートとかの選択肢があってもよかったのに。
買ってもらったシャンプーで初めて髪を洗ったあと、甘ったるい香りのする自分の髪の毛に、なんとなくこれで自分もカワイイ女の子になれたかな、とホッとしたのを覚えている。

もちろん良い意味で影響を受けた広告だってある。
20世紀後半、まだテレビCMやポスターといった広告が莫大な影響力を持っていた広告の黄金時代に作られた数々の広告には、その時代その時代のクリエイティビティがぎゅっと濃縮されているようでとても眩かったし、広告という限られた時間とスペースの中で表現される様々な感情の機微やありふれた人間模様、そしてそれを見ることによって得られる共感は魔法のように感じられた。
だからこそ、自分もそんななにか人間の本質に触れるような、媒体としての広告に憧れてマーケティングという仕事を選んだ。ただ、外資系の化粧品メーカーでマーケターをしていたときに見た現実は、肌の黒すぎるモデルは醜いから使うな、アジア人のモデルを使うと売れない、といった言葉だった。それは、かつての自分を苦しめたステレオタイプを繰り返し聞いているようでとてもつらかった。そして、広告の問題はなにも広告代理店側だけの問題でなく、クライアントであるブランド側も共に考えていかなくてはいけない問題なのだと思った。
ジェンダーギャップ指数の高い日本の広告の現状
最近日本で、女性をターゲットにした広告やマーケティングコミュニケーションが数々炎上している。25歳をすぎたら女性は可愛くないとか、働く女はオスだとか、あげくの果てには前述したジェンダーステレオタイプ通りの「やっぱり女性は運転が苦手ですか?」とか。
こういった炎上の背景にあるのは、なにも問題的な女性の描写をした広告が増えたということではなく、SNS上などで問題提起をするのがより簡単になったということだろう。
それでも炎上した広告を見ていて共通すると思うのは、女性を一定のイメージに当てはめたり、何かを強制しようとしていることだ。カワイイ、キレイ、モテる、セクシー、キュートといった女性を性的対象化する限定的なイメージ。そして痩せろ、毛を剃れ、働け、でも化粧をしろ、料理をしろ、子育てしろ、といった押し付け的なメッセージ。
こうした広告で描かれる女性の姿は、この国で生きる女性の求められる「完璧な」女性の姿を映し出している。
2018年度の日本のジェンダーギャップ指数はG7でも最下位の110位だった。広告で描かれる女性像と現実の女性像とのギャップもまた、溝の深いものなのかもしれない。それでもこういった型にはめられた女性のイメージや社会的役割に、疑問を持ってもいいんだ、そうじゃなくてもいいんだ、という認識が、SNSなどで広まっているのは喜ばしいことだと思う。
まだ見ぬ広告を求めて
欧米ではここ数年女性のエンパワーメントにフォーカスした広告、いわゆるフェムバタイジング(フェミニズム+アドバタイジングを合わせて作られた言葉)が流行している。
その流行を生み出すきっかけとなった一つの広告が、P&Gの生理用品ブランドAlwaysによる#LikeAGirlというキャンペーンだ。
この広告にはAlwaysの商品である生理用品は一度もあらわれない。そこにあるのは、ただただ私たちはいつの間にか「女の子のように」という言葉を運動が上手くできないなどの侮蔑として使うようになっている(同じような例で、日本語では「女々しい」という言葉がある)という気づきと、「女の子のように」という言葉を賞賛として使われるようにしようというAlwaysの力強い呼びかけである。
今年放映されたNikeのDream Crazierと題されたCMにも同じような力強いメッセージが込められている。女性が感情を示すとドラマチックだと言われ、怒りを示すとヒステリックやクレイジーと言われる、といった女性が何かをした時にあびせられる不平等なコメント。CMではそれに対して女子プロテニス選手のセリーナ・ウィリアムズがナレーションで疑問を投げかけ、マラソンを走ろうとした女性がクレイジーと言われ止められる様子を写した過去の映像などが流されるとともに、「クレイジーと言われることを恐れずやろう」といったメッセージで締めくくられる。
これらの広告は、大きな反響を呼び、多くの人が力づけられたとコメントしている。共通するのは、身近にある性差別を取り上げ、それにおかしいと声をあげ、共に立ち上がろうと呼びかけるブランドの明確な姿勢だ。

これからの広告コミュニケーションは、ただただ消費者にこうなるべきであるという姿を提示し消費を呼びかける一方的なものから、企業やブランドが社会問題や政治について、ともに考えるようなものになっていかなくてはならない。広告は、時代を映す鏡としてだけではなく、核心に多様性や平等といった信念をもち、ロールモデルを映し出すものであってほしい。
そしてそれは広告だけで語られる薄っぺらいメッセージではなく、実際の企業活動や組織構成にも反映されたものでないといけない。
広告にはよくも悪くも力がある。広告ほど、多くの人の目に触れるメディアはなかなかない。だからこそ、その力がより良い方向に使われる未来を望んでいる。
タニムラリサ
外資系ラグジュアリファッションブランド、化粧品ブランドなどのマーケターとして活動。同時にライターとしてNEUT Magazineほか、様々な媒体でファッションやフェミニズムなどをテーマに執筆。現在起業準備中。
