「ムダ毛があると恋できない?」恐怖心を煽る“脱毛サロン広告”が掲げるメッセージについて考えてみた

Text: Lisa Tani

Photography: Lisa Tani unless otherwise stated.

2018.4.21

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こんにちはタニリサです。

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満員電車の中、吊革に掴まって揺られていると、ふと目の前の広告が目に留まる。

「あなたはムダ毛の処理、大丈夫?」と問いかける、つるつるに肌を加工されたモデルと目が合い、急に自分の服の袖の隙間が気になって、吊革に掴まった手を降ろして両脇を閉じたくなる。追い討ちをかけるように、「つるスベ肌で恋をしよう!」なんてコピーも目に飛び込んでくる。

もしくは、「青ヒゲはモテないぞ!」なんて中吊り広告の美女に微笑みかけられて、思わず自分の顎を手で触れてしまう。

あなたにもそんな経験はないだろうか?
 
 
これを読んでいる多くの人が、思春期の入り口にさしかかると同時に体毛について悩まされてきたと思う。

幼心に生えてくる体毛に嫌悪感を抱いたのは、なんだか急に自分が男性、女性という二項対立の一端に無理やり振り分けられてしまった気がしたからかもしれないし、体毛があるのは恥ずかしいことだ、とすでに頭の中に刷り込まれていたからかもしれない。

じゃあ一体いつから私たちは体毛を恥ずかしい、みっともないと思うようになったのだろう?

「ムダ毛がある=モテない」の方程式に脅かされる消費者

それにはやはり、日常的に目にする広告のメッセージや、そこに掲げられた美の定義が大きな一因を担っているのではないだろうか。

今日私たちが1日に目にする広告の数は4000とも10000ともいわれている。そしてそれらが私たちに与える影響は計り知れない。

物心ついた頃にはあたりはとうに「ムダ毛がある女性は男性にモテない」といった旨のメッセージで溢れかえっていたし、そのころはまだ、「生物学上の女性として生まれたからには生物学上の男性と結婚しないと生きていくことができない」とどこか思い込んでいた節もあったので、男性にモテない、というのはそれこそ死活問題であったのだ。これは男女を逆にしても程度の差はあれど、同じようなものだったと思う。

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そんなこんなで自分の手足に生えた毛を恥ずかしい、と認識するようになってから10年以上経つが、あの頃から日々目にする脱毛広告の基本構造はさして変わっていない気がする。

もちろん脱毛そのものが悪なのではない。多毛症に悩む人や、コンプレックスを持つ人にとって、プロによる永久脱毛は救いだ。それに、自分自身の追求する美の定義が体毛がないことなのなら、永久脱毛は美への近道だ。

ただ、体毛があるとみっともないから、モテないから、という理由で高い永久脱毛をするように消費者を煽るのは間違っていると思うのだ。

先述したように、脱毛広告で一番よく目にするのが、脱毛をすることで自信を得て、恋愛をすることができる、要は「モテる」ようになる、といったメッセージだ。

消費者に、異性からの視線を意識するよう価値観を押し付けて、「ムダ毛がある=(異性から)モテない=女性・男性として社会から認められない」といった公式を作りあげ、恐怖心を煽り、永久脱毛という商品を消費するよう強制する。

同じように、消費者の「社会の規範から外れてしまうのではないか」という恐怖を煽る構造のメッセージが、マナーやエチケットといった概念を打ち出したものだ。「ワキの甘い人は、全身甘い」なんてうまいことをいったようなコピーもあった。

「わき毛の処理もできないようでは、社会からマナーのない女性だと思われてしまう、だから脱毛しましょう」というように脱毛を“女性に科された義務”のように騙っている。

「モテ」だけでは売れない時代のフェムバタイジングと脱毛広告

それでも、いくつかの女性向け脱毛広告を見ていると、「モテ」という言葉は以前に比べ身を潜めている気がする。

代わりに台頭してきたのが、近年欧米で流行っている女性のエンパワーメントを促すメッセージを用いた「フェムバタイジング」の手法と、それにともなう「自信」というワードだ。
フェムバタイジングとは、例えばP&Gの生理用品ブランドである Alwaysの広告に代表されるような、ジェンダー平等を訴えかけるフェミニスト的メッセージを盛り込んだ広告を指す。

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フェムバタイジングには、従来の「性差別的なメッセージ」を多用した広告からの脱却を賞賛する声と、本来全ての性別間の政治的、経済的、そして社会的平等を目指すものであるフェミニズムを女性消費者により深くブランドに共感してもらうためのツールとして都合よく商業利用し、本来の政治的なムーヴメントからかけ離れたものにしているという賛否両論が聞かれる。

いくら「女性に力を」と形だけ訴えていても、売ろうとしている商品やサービスがそれにそぐわないものであれば批判が集まるのもなんら不思議ではない。

日本でも、そんなフェムバタイジングの手法だけを模倣し、女性エンパワーメントの代表的なスローガンである「Girl Power」をもじった脱毛広告を見かけるようになった。

でも、女性にとって、「ムダ毛の処理をしなきゃ」「美しくあらなくては」と強制されることの一体どこが、力を与えられることになるのだろう。

女性に力を、というのは本来であらば、ムダ毛の処理をしようがしまいが、美しくあろうがあらまいが、どちらでもいい、と自分のために自由に選択できることなのではないだろうか。

広告のいう“美の定義”に流されなくていい

近年アメリカでは、ミレニアル世代の女性の4分の1もがワキを剃らないという選択をしている。そんな風を受け、昨年アディダスは、脚の毛を剃っていないモデルを広告イメージに起用した。

私たちが、広告に絶対と教わってきた“美の定義”が、個人個人の力によって壊され、今また新たな“美の定義”として広告に反映されようとしているのだ。

そういえば60〜70年代までの日本ではワキ毛の処理をしているのはショービジネスなどに携わる一部の人だけだったとも聞く。

またヨーロッパには脚の毛は剃っても腕の毛は剃らない、といった女性が多くいる。
“美の定義”なんていうのは時代や場所によって変わる流動的なものなのだ。

広告のメッセージだけに流されることなく、自分自身で、自分自身の為に何が美しいのか決めていく自由があってもいいのではないだろうか?

※こちらはBe inspired!に掲載された記事です。2018年10月1日にBe inspired!はリニューアルし、NEUTになりました。

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