どうして母は「北(北朝鮮)」を選んだのか。沈黙を破り語られた「済州4・3事件」と在日コリアンの家族の肖像を描く映画『スープとイデオロギー』|GOOD CINEMA PICKS#31

2022.5.3

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 イデオロギーとはなんだろう。私たちは何を信じ、何を軸に生きているのか。そして異なる思想の成り立ちにどれだけ向き合うことができているだろう。例えば海を隔てた隣国、韓国と北朝鮮についてはどうだろうか。
 日本にはさまざまな理由で「在日」と呼ばれる外国籍の人たちがいる。今回紹介する映画『スープとイデオロギー』のヤン ヨンヒ監督も「在日コリアン」の一人だ。監督は、2005年から、父親を主人公に自身の家族を描いた映画『ディア・ピョンヤン』、姪の成長を描いた『愛しきソナ』、脚本・監督した初の劇映画『かぞくのくに』など、家族を映すことを通じ、自らのルーツと北朝鮮との関係を描いてきた。

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ヤン ヨンヒ監督

 コリアン2世である彼女は、大阪・生野区にあるコリアタウンで生まれ育った。在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)で働いていた父と、ともに活動家として父を支えた母は韓国政府を徹底的に否定し、「帰国事業」という名の政策のもと地上の楽園と謳われた「北(北朝鮮)」へと息子たちを送り出した。しかし、そこまでして「北」を信じていたのはなぜだったのか。兄たちを北の国へと送り出した母を心の中で責めてきたという監督が描くのは、朝鮮半島と日本の歴史のうねりを生きる在日コリアン家族の肖像と、個人の記憶を通して紡がれる、公に語られてこなかった歴史への問いだ。

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 監督にとってドキュメンタリー映画を撮る行為は、決して簡単なことではない。映画発表後、作品に対する謝罪文を書かなかったとして北朝鮮への入国が禁じられ、兄や親戚に会えなくなった。そして26年間、もし「北」にいる家族が罰せられたら? という自問自答を繰り返しながらも、映画の制作を続けてきたという。2022年6月11日より映画館で公開される『スープとイデオロギー』は彼女が初めて「南(韓国)」との関係を扱う10年ぶりの最新作となる。

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忘れなければ、生きていられないほどの記憶

 映画は監督のオモニ(母)の言葉から始まる。

「あっちこっちから射撃の音がバァン!バァン!て。チェジュ島のオモニ(母)たちがたくさん殺されてん。学校の運動場に強制的に引っ張っていってみんな並べて、機関銃でダダダダダ!」

 それまで聞いたことのなかった、母からの告白。高齢になり、アルツハイマーが進行するなかで大動脈瘤りゅうの治療を終え、入院中のベッドで娘のヨンヒに話して聞かせたのは、70年前に目にした「済州チェジュ4・3事件」での光景だった。現在は人気観光地として知られる済州島(チェジュド)で起きた、韓国でも長年語られることがタブーとされてきた多くの島民が犠牲となった虐殺事件。まさかその渦中に母がいたとは思わなかったと、監督は後に述べている。託すように語られたその話を、映画にすると決め、撮影されたのが『スープとイデオロギー』だ。
 舞台は監督の生まれ育った大阪市東成区・生野区。日本最大とも言われるコリアタウンが広がる地域として知られている。1910年の韓国併合以降、朝鮮半島は日本の植民地になり、大阪-済州島間定期直行船「君が代丸」が就航した頃から運河やトンネル建設、工場労働者の受け皿として、済州島民が多く渡航させられた。終戦後、朝鮮半島解放後に多くの済州島出身者が故郷に戻るも、1948年、韓国の軍事政権による反共産党を旗印に約3万人もの犠牲を生んだ無差別虐殺「済州チェジュ4・3事件」が起き、多くの避難民が日本に逃れた。その生存者の一人が、監督のオモニ(母)だった。

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 映画はオモニの記憶を手繰り寄せるように進んでいく。次第に記憶の失われていく母を、ヨンヒは70年ぶりに故郷、春の済州島へ連れていく。しかしそこで目にしたのは今も尚傷跡が残されている、想像を超えた悲惨な光景だった。個人で到底抱えることのできないような恐ろしい記憶とトラウマを、母はどのように抱えて生きてきたのか。

思い出したくないのだろうか。忘れなければ、生きていられないほどの記憶だったのだろうか。(映画中ヤン ヨンヒ監督の言葉より)

 劇中監督は、済州島を訪れ「済州4.3事件」のむごさを実感し、初めて母がどうして「北」に没頭したのかが理解できたと涙を流しながら語る。オモニの言葉から語られる記憶の後ろに見え隠れするのは、国家間の争いや政策によって振り回され続けてきた、個人の、そして在日コリアンの歴史だ。

“地上の楽園への民族の大移動”

 1945年8月15日、日本が敗戦し朝鮮が独立するも、在日コリアンは講和条約の発効まで日本国籍を維持するものとされた。にもかかわらず、選挙権を停止させられたうえ、1947年の外国人登録令では「外国人」として登録を義務づけられた。その際、国籍欄には便宜上「(出身地)朝鮮」として登録され、1952年サンフランシスコ講和条約の発効(日本の独立の回復)と同時に、日本政府は在日朝鮮人の日本国籍を一律に喪失させる措置をとった。1948年に大韓民国が樹立されて以来、韓国政府は在日コリアンの国籍を韓国に書き換えることを求め、一部書き換えが進んだ。この書き換えが本格化するのは1965年の日韓の国交回復(日韓条約の締結)以後、韓国籍に限って「永住権」が付与されるようになってからであり、1970年には朝鮮籍・韓国籍の比率が逆転した。現在の朝鮮籍保持者は、その後も一貫して韓国籍への書き換えも日本国籍の取得もしなかった在日コリアンであり、必ずしも「北朝鮮国籍」ということではない。2020年末時点の朝鮮籍保持者は2万7千人余りで、在留資格はほぼ「特別永住」となっている。
 そして1959年12月から二十数年間にわたって続いた北朝鮮への集団移住が「帰国事業」と呼ばれる政策だ。日本と北朝鮮政府と両国の赤十字によって推進され、朝鮮総連だけではなく、日本のメディアさえも「地上の楽園への民族の大移動」と称賛し、日本社会で差別と貧困に苦しんでいた9万人以上の在日コリアンが、新潟港からの船で未知の国=北朝鮮に渡ったとされる。一方、当時日本と北朝鮮の間にはまだ国交が樹立されていないことや、北朝鮮住民の海外渡航の制限もあり、「帰国者」たちの日本への再入国はほとんど許されていない。

思想や価値観が違っても一緒にご飯を食べよう

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 映画のなかで、オモニが市場で買ってきた大量のニンニクの皮を一つ一つ剥き、高麗人参、なつめとあわせて一羽丸ごとの鶏の中に詰めたあと、緊張した面持ちで、しかし丁寧にコトコトと何時間もスープを煮込む。オモニは監督の婚約者カオルさんへそのスープを振る舞う。そしてその味を引き継ぐかのようにカオルさんが見よう見真似で作ったスープを、3人で囲んだときの、オモニの笑顔が、忘れられない。生前に撮られた映像で、アボジ(父)が「日本人とは絶対に結婚するな」と娘のヨンヒに話すシーンがあった。しかしアボジの死後、彼女がパートナーに選んだのは、日本人のカオルさんだった。

タイトルには、思想や価値観が違っても一緒にご飯を食べよう、殺しあわず共に生きようという思いを込めた。(ヤン ヨンヒ)

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 国家間の争いで犠牲になるのは、いつでも個人だ。奪われた命は、石碑に何万と刻まれた名前の中の一つとして刻まれるにすぎない。到底個人では抱えることのできないほどの経験を、一人の記憶から語るしかなかった出来事として映画が示すのは、無差別な殺戮が許される社会と、思考停止の歴史への疑問符なのではないか。生まれる時代と場所を、私たちは選ぶことができない。しかしどのような考え方を受け入れ、軸にしていくのか、私たちは拠り所を、そして生きる場所や思想を選ぶ権利があるはずだ。私たちは何を信じ、何を軸に生きていくべきなのだろうか。そしてイデオロギーの違いにどのように向き合い、受け入れ、対峙するべきなのか。映画『スープとイデオロギー』が示すのは、思想の違いを抱えたままに、愛とお互いへの敬意を持ってスープを分け合う家族の肖像だ。

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『スープとイデオロギー』

6/11土より [東京] ユーロスペース、ポレポレ東中野
[大阪] シネマート心斎橋、第七藝術劇場にてロードショー
ほか全国順次公開決定!

公式サイト

監督・脚本・ナレーション:ヤン ヨンヒ
撮影監督:加藤孝信 編集・プロデューサー:ベクホ・ジェイジェイ
音楽監督:チョ・ヨンウク(『お嬢さん』『タクシー運転手 約束は海を越えて』など) 
アニメーション原画:こしだミカ
アニメーション衣装デザイン:美馬佐安子 エグゼクティブ・プロデューサー:荒井カオル
製作:PLACE TO BE 共同制作:navi on air 配給:東風
韓国・日本/2021/日本語・韓国語/カラー/DCP/118分
(C)PLACE TO BE, Yang Yonghi

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