女子生徒の地毛の黒染めを強要し裁判沙汰になった事件と実体験を照らしてわかった「校則の無意味さ」|橋本 紅子の「常識」と「パンク」の狭間で、自由を生み出すヒント #006

Text: Beniko Hashimoto

Photography: Jun Hirayama unless otherwise stated.

2017.11.22

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こんにちは。紅子です。

少し前に、大阪府の女子高生が生まれつきの髪色にもかかわらず「黒くないから」という理由で学校側から黒染めを強要され、不登校となったのちに裁判へと発展した事件が注目を集めましたね。ツイッターなどでは「自分も同じ経験をした」とか「自分の学校にはこんな規則があった」といった声が数多く上がり、#こんな校則いらない#ブラック校則といった、校則にまつわるタグも盛り上がっていました。

私は中学時代を地元の公立で過ごしてそれなりに厳しく管理される日々を送ったあと、高校は校則がひとつもない都内の私立校に通って超自由な学校生活を満喫してました。

今回は、そんな二つの正反対な環境を経験してみて思う「ルールの意義」について書こうと思います。

毎朝職員室でクレンジングさせられていた中学時代

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中学時代、私の通っていた学校は近隣の中学と比べるとほんの少しだけ校則が緩い、なんて言われていた。まあそれも履ける靴下の種類が他より1種類多いくらいの話で(しかもくるぶしソックス)、月曜日の朝会や行事の前になると頭髪やらスカート丈やら靴下の柄の有無やらを丁寧に検査されていた。

スカートから膝小僧が見えていないか、上履きを脱がせてワンポイント以外に柄が入っていないか、ヘアゴムに装飾はついていないか等々。

私は小6くらいから買い始めたティーン雑誌のメイク特集を真似して以来、「お化粧ってなんて楽しいんだろう!」と感動して、マスカラとかビューラーとか、ぱっと見で分からない程度に毎日化粧をしていた。

当然、それは学校の規則に引っかかる。

「当然」と書いておいて何だが、その当然には全然納得できなかったし、今もできないままだ。メイクがナチュラルかどうかは問題じゃない。検査で顔を見て、まつ毛を上に向かせていたら、まつ毛に黒い液体が塗られていたらアウトなのだ。顔とか、髪とか、とにかく何か装飾するものを付けていてはダメなのだ。

私は一度メイクがバレて以来、服装チェックのない日も毎日自分(と、その他の同じようにメイクしてた子たち)だけ顔を検査され、運良くバレなかった日を除いては職員室に連れて行かれ、常備されていたクレンジングオイルで顔を洗わされていた。

それでも毎日メイクして行ったのは、メイクしている自分の方が好きだったし、なんでメイクしてはいけないのかが分からなかったからだ。「反抗してやろう」みたいな尖った気持ちはそんなに持っていなくて、ただ自分の見た目を誰かに制限されるということに対して納得できる理由が見つからなかったからだ。

メイク落としで顔を洗わされたあとは再びトイレに行って、したたかにメイクをし直した(そのあとは担任も自分の授業があるため追いかけ回されずに済んだ)。「マスカラの減りが2倍になるから勘弁してよね」とかそんな愚痴をギャルの友達と言い合っていた気がする。

男子は男子で、当時巷のメンズヘアーはワックスでツンツン髪を立てるスタイルが流行っていたので、ワックスをつけている生徒は髪を洗わされ、真冬に真水でびちょびちょになっている生徒がいたのも印象に残っている。

「そりゃあ校則でそう決まってるからね」。

罰せられた理由を探れば簡単に答えが出るだろう。でも、危惧すべきはそこなのだ。それが「答え」として成立し、その理屈で多くの人が納得してしまうことに、疑問を持つべきだと私は思う。

詳しくは後で述べるとして、私の中学時代はそんなかんじだった。

自由すぎて戸惑った高校時代。自分のことを自分で決める難しさ

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風紀に関してやや問題視されていた中学時代だったが、授業はそれなりに真面目に受けて塾にも通っていたので絶望的に成績が悪いわけでもなかった。

でも、高校受験の時期になって地元のオープンキャンパスに行ってみても、いまいち行きたいと思う場所がなかった。そんなある日、友達の誘いで地元から2時間くらいかかる都内の私立高校の文化祭に、付き添いがてら遊びに行った。

私はその日に志望校を決めた。

その高校には校則がない。制服もないので、どんな格好で登校してもいいし、髪色だって自由だ。法にさえ触れなければ、どんな自分でいることも許された。

合格条件は満たしていたので、他を受けることもなくそのまま入学した。

幼稚園から大学まである学校だったので、中学やそれ以前から通っている生徒のことを「内部生」、高校から入った生徒のことを「外部生」と呼んでいた。

私を含め外部生の多くは、入学当初あまりの自由さに感動すると同時に戸惑った。これまで髪色も服装も統一させられてきたのに、突然「好きにしていいよ」なんて言われたもんだから、ずっとやりたかった茶髪、エクステ、ピアス、ネイル、なんでもやった。

みんながみんなではないが、校則の厳しい学校から入学して来た生徒ほど入学当初は派手な格好をしていたように思う。

面白かったのは、それまでもずっと校則ゼロの中で過ごして来た内部生の服装や髪色は、外部生よりずっと落ち着いていたことだった。

1年生の頃はそうやって、「やってみたかったことリスト」を1つずつクリアするみたいに自由を謳歌していた私も、卒業する頃になると受験も終えているのにすっかり黒髪に落ち着いていた。3年生3学期のある日のホームルーム中、ふとクラスを見回すと、内部生も外部生も黒髪ばかりで「みんな勝手に落ち着くんだな」と笑ってしまったのを覚えている。入学式にパンチパーマで出席していためちゃくちゃヤンキーだった男の子も、当初のトゲトゲしさが完全になくなりかなりマイルドになっていて、その差が激しすぎてネタになっていた。無論、どちらがいいとか悪いとかではないし、先生たちはどんな格好をしていようと構うことなく、あくまで生徒の人格や言葉に耳を傾け、上から目線で取り締まるのではなく対等に接してくれていた。

面白かったのは外見の違いだけじゃない。

「外部生」として入って来た私や友人は、見た目以外にも少なからず内部生に対して何か大きな違いを感じていた。

内部生は、とにかく自分の意思がしっかりしていた。そしてそれを恐れずに言葉にする術を知っているように見えた。

「私はこう思う」。
「俺は〜だから○○には反対」。

ルールが0な分、文化祭や体育祭などの行事やクラス内での些細なことまで、決まりごとを作るときには必ず生徒たちが話し合って決めていた。だから事あるごとに話し合いの場が設けられたし、国語や社会の授業でも机をコの字にしてディベートする機会が多かった。

「あなたはどう思う?」

そう問われる機会が非常に多かったのだ。意見がないと話が進まない。だから常に自分の頭で考えなくちゃいけない。

これまでみたいにあらかじめ決められたルールがなく、「こうあるべき」という型にはめられることなく過ごせるということ。それは、自由であると同時に常に主体性を持って選択を繰り返して行かないと前に進めないという事だった。

そしてその選択に責任を持たなければならなかった。意見はそのまま自分たちのルールになるから、当事者意識がなければ苦労するのは自分たち自身だった。それは高校生には簡単なことじゃなくて、自由であるということは、究極の厳しさでもあったのだ

「だって最初からそう決まってるから」という言い訳ができない状況。ある意味、ルールがあるのは楽だ。自分の意思ではないと言いながら、自分の意思を探さずに済むからだ。

どんな格好をしたっていいし、何をしてもいい。でも、それは自分が何を選択し、何者になるかをストレートに問われることだった。

厳しい管理下で培われる価値観と衰える思考力

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中学時代、厳しい服装検査が行われるたびに、まつ毛が数ミリ伸びていたら、靴下がチェック柄だったら、ヘアゴムの色が黒ではなくピンクだったら誰かの腹でも痛くなるのだろうかといつも思っていた。

「この校則に何の意味があるの」と教師に尋ねると、「こういう小さなことをきちっ、きちっと守って行かないと、1個許せばあれもこれもって、あなたたち大変なことになってっちゃうでしょう」という答えが返って来た。

まあ想像していた通りの答えではあったが、何度頭の中で繰り返してみても、それは実体のない、意味については曖昧なままの答えだった。

「大変なこと」とは、一体なにを指していたのだろう。高校入学当初の私みたいに、髪の毛が茶色くなってピアスを開けて、ネイルをするということだろうか。もしそれが問題なのだとしたら、電車の中で見かけるあらゆる茶髪・ピアス・ネイルの大人たちはどうなるのだろう。「大変な」人たちばっかりだ。

それとも、学生だとまずいということなのか。それは世間の印象が悪くなるからなのか。だとしたらそれは、世間から「校則を守らない学生たち」として映るからでは無いのか。もしそうだとしたらそれは、そもそもそういう校則があるからという話にならないだろうか?

見た目が派手だと勉強しなくなると言いたいのだとしたら、それはない。実体験としてそう言えるし、勉強しない理由があったとしたも、それは見た目のせいではないはずだ。

結局、なぜ髪が茶色ではいけないのかについて納得のできる理由を教えてくれた教師はいなかった。代わりに、風紀に関して最も厳しかった教師はこう言っていた。

「お前たちがルールさえ守ってくれりゃあ、先生たち何も言わないんだから」

以前ゆとり教育の記事でも書いたことだが、結局、髪色がどうとか靴下がどうとか、そんな項目の存在理由は空虚なもので、「そこに従うか歯向かうか」の目安としているに過ぎないのではないのか。

「それはそういうもの」として有無を言わせず納得させ、疑問を抱き従わない場合には罰則を与える。それって恐ろしくないだろうか?

人が何かを選択する時には必ず動機がある。

あらかじめルールで決められたことには、その動機づけが必要ない。ただ「ルールだから」という一言があれば片付いてしまう。つまり、自分の行動に理由や責任や当事者意識を持つ必要がなくなり、それはいつでも「ルール」という盾に委託して、自分はその後ろから出ないようにしていればいいのだ。ある意味、とても楽だ。考えなくていい。

集団生活をする上でルールは必要だ。

しかし、一方でそれは誰かの選択肢を奪うことでもある。だからこそ、ルールというのはその下で動く当事者たちにいつでも介入の余地を与えるべきだと思う。かといっていつもそうはいかないなら、少なくともルールを課す側はいつでもその理由を明確に提示できる状態であるべきで、課される側が不服の時はそれを変えるよう求めることが可能であるべきだと思う。理想論のようだけど、日本は民主主義の国だ。それはどんな組織でもそうあるべきだと思うし、簡単ではなくてもそんな意識が根付いていくことで、少なくとも無意味な規則に心まで縛られずに済むのではないかと思っている。

BENIKO HASHIMOTO(橋本 紅子)
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神奈川県出身。音楽大学卒業後、アパレル販売をしながらシンガーソングライターとして活動を続ける。2015年5月に結成されたSEALDs(=自由と民主主義のための学生緊急行動)に参加しSNSやデモ活動を通して同世代に社会問題について問い掛けるようになる。

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※こちらはBe inspired!に掲載された記事です。2018年10月1日にBe inspired!はリニューアルし、NEUTになりました。

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