「愛と執着ってなにがちがうの?」この問いを哲学的に考えたら気づいた、現代人の恋愛に足りないこと| “社会の普通”に馴染めない人のための『REINAの哲学の部屋』 #005

Text: Reina Tashiro

Photography: Junko Kobayashi

2018.1.17

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こんにちは、伶奈です。大学院まで哲学を専攻しちゃったわたしが、読者から日常の悩みや社会への疑問、憤りを募り、ぐるぐる考えたことを書き綴る連載の第5弾。一方通行ではなくみんなで協働的に考えられるようにしたいので、時に頷き、突っ込みながら読んでくださると嬉しいです。

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伶奈ってだれ?▶︎
「当たり前」を疑わない人へ。「哲学」という“自由になる方法”を知った彼女が「答えも勝敗もない対話」が重要だと考える理由。

今回の相談:愛と執着ってどう違うんですか?

愛と執着の違いとは? 好きだから執着しているのか、今までかけてきた時間に対しての執着を愛と錯覚しているのかわからず、立ち止まってしまうことがよくあります。どのようにお考えでしょうか?

(めう、23歳)

めうさん、こんにちは。ご相談ありがとうございました。単純そうですごく難しい問いですね。考えてみます。

なんとなく知っている、愛のこと

愛は、わたしたちの希望なのか、誰もが一度は考え、経験し、苦しんだことのある、人間の原体験みたいなもの。愛は、どうしようもなく何かに惹かれてしまう意志や動機だったり、二者を結びつける結合の原理だったり。対象はひとそれぞれだけど、みんななんとなく知っている、愛のこと。

なんとなく、愛はキラキラ、執着はベトベトしている感じがするんだけど、その違いがいまいちわからなくてググってみた。そしたら案の定、「執着は苦しい、愛情は幸せ」「愛は見返りを求めない、執着は利益が欲しい」みたいな文言が待っていた。

「執着」は一般的にわりと広い意味で使われ、所有欲や嫉妬のような感情と結びつくためかすごく窮屈な印象があります。相手のことを思うならば、一緒にいた年数なんかに執着せず、離してやるべきだ。それが愛だよ、とかアドバイスして、「愛vs執着における愛の勝利!」と言いたいところだけど、もう少し考えてみます。

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「あなたがいないと生きられない」は、ダメだ

友達に相談される「別れたいけど、でも…」のあとは必ずといっていいほど執着話。でも7年間も一緒にいた、でもいい人、でも好き、でも相手は変わると言った、etc…。人間、一筋縄ではいかぬ。複雑すぎる。「なるほどそっかー」と頷きながら、頭のなかでは別のことを考える。わたしたちは、一体なにに執着しているのだろうか。

もしかして、相手に執着しているようで、実は自分に執着しているのではないか。7年もあなたと一緒にいたわたし、こんなあなただったけど一緒にいたわたし、わたしのために変わると言ったあなた。結局どこまでもわたし。わたしがわたしを縛っているだけで、その目にあなたは映っていない。

めうさんが言うように、「今までかけてきた時間」の呪縛はとくに恐ろしいと思います。もはや自分でも相手でもなく、宙に浮いてしまった「関係性」を必死に捉えようとしている。でもこの関係性だって、実は相手に共有されていない自分だけのものかもしれない。相手の意志が配慮されている感じはしません。

あと、孤独が辛いから執着してしまうということもよくある。でも、相手はわたしの孤独解消の手段なんかじゃない。人格だ、人格。

これら執着に共通するのは、世界が自分のものになってしまっている、他者不在の自己愛だということ。「あなたがいないと生きられない」みたいな、他者を自己に還元してしまう、依存だ。自戒を込めて、他者と世界はお前のものじゃねえよ、と言いたくなる。そういう意味では、愛と執着をちゃんと分ける必要はある気がします。

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いや、もっと相手に執着したら?

でもそのうえで(←これ大事)、執着なんてし合わないで「あなたの好きにして」も、なんか違う気がする。束縛しちゃだめ、所有欲は罪だ、みたいな恋愛観って一見正しいけれど欺瞞的だとも思います。前提に「人間ひとりで生きられる」的な、行き過ぎた個人主義が潜んでいる気がするから。

18世紀に活躍したドイツの哲学者イマヌエル・カントは、「自律」と「他律」を分けて、「大人だったら自律して理性的に生きろ」と言います。カントの世界観では、関係性や他者よりも「自己」が先立っていて、自律した大人たちがそれぞれ理性的に結びついている。イメージは、きちんとした大人同士の恋愛。(カント研究者たち、雑な解釈で本当にすみません)

でも、わたしたちは本当にそういう世界で生きているのでしょうか。そういう人間像を理想としているのでしょうか。

わたしは、自律した個人が点在しているのではなく、網の目のなかにすでに人間は存在してしまっている、つまりネットワーク的な関係性を持ってしまっていると思います。そして、この世界や存在はすでに「ある」ものではなく、「つくっていく」動的なものだとも思います。

人間関係は、乾いた砂のようにサラサラしたものではない。ここは、誰かがいるからこそ生きていける世界。だからといってベタベタだけでも自己愛に回収される執着ごっごでもない。孤独だし、孤独じゃないし。誰でもいいようで、誰でもよくないし。なんか言ってそうで、何も言ってない…?

いや、そうなんだけど、その揺れ動きのなかで、どうしようもなさのなかで、ひとは生きているのだなあ、と思うのです。

わたしの敬愛する20世紀ドイツの実存哲学者、カール・ヤスパースがこんなことを言っています。

私自身であることは孤独だということである。私もまた自立者として独立して自分自身でないならば、私は全く他者のなかに自分を失う。このとき私自身がなくなると同時に、コミュニケーションが破棄される。

私は、コミュニケーションへ入ることがなければ、自分になることができず、孤独でなければコミュニケーションに入る事ができない。

どっちだよ、というツッコミはさておき、ヤスパースがいうコミュニケーションは、「おはよ」「ういーっす」ではなく、「心を本気で見せあおうぜ」みたいなヤバイやつで、「愛しながら戦い」と言い換えられたりもします。コミュニケーションが、戦いかよ。生半可な執着じゃない、キングオブ執着。

ヤスパースは、人間は孤独とコミュニケーションの「両極性」のうちに存在する。ひとは、「他者へのコミュニケーション的態度と、自己の絶対的独立性という緊張関係のうちに存在するのである」と続けます。

でも思うのは、いまこの世界で圧倒的に足りていないのは、コミュニケーションのほうではないでしょうか。だからもっと「相手」に執着したら?と思う。もっともっとコミュニケーションをとって相手を知ろうとしたり、応答し合ったり、感情を出し合ったり、愛を持って戦ったりすればいいのに。そしたら世界は、孤独でバラバラで壊れそうな人間がへばりついているところじゃなくて、同質さも異質さも共有して「あなたがいるから生きられる」空間になるのにな。

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ぐるぐる考えてみたけれど、毎回すぐ世界とか言って話がでかくなりすぎだし、話が飛びすぎ。

原稿がうまく書けず友人に相談したら、「一緒にいる人によって自分も変わってくるし、『この人といるときの自分が好き』『その自分に執着しちゃう』というのは相手への気持ちの一貫でもある気がする」ってラインがきた。初稿提出数分前だったから盛り込めなかったけれど、本当にそうだな、と思った。「この相手といる自分がどうしようもなく好き」がないと、「相手が好き」にならない気がしています。これは、執着なのだろうか?

続きは一緒に考えてくれたら嬉しいです。意見や批判、感想をお待ちしています。Twitterハッシュタグ「#REINAの哲学の部屋」で。

2月の連載のテーマ募集します!

田代 伶奈

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ベルリン生まれ東京育ち。上智大学哲学研究科博士前期課程修了。「社会に生きる哲学」を目指し、研究の傍ら「哲学対話」の実践に関わるように。現在自由大学で「未来を創るための哲学」を開講。Be inspired!ライター。

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※こちらはBe inspired!に掲載された記事です。2018年10月1日にBe inspired!はリニューアルし、NEUTになりました。

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