「ネタなんかじゃ、ないのだ」。“メディアに忘れられた福島”で僕が体感した、実際に訪れてみないとわからない感覚|清水文太の「なんでも」#004

Text: Bunta Shimizu

Photography: 雨夜 unless otherwise stated.

2019.8.6

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福島駅から、大崎行きの夜行バスに乗りながらこの文章を綴っている。

電車や新幹線より何となく、車で長い時間をかけて高速道路を駆けていくその’ひととき’は、僕にとって雑多になった思考回路を整理することのできる大切な時間。

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清水文太
インタビュー記事はこちら

実際に訪れてみないとわからない感覚

川俣町山木屋地区で開催されたPena Kawamata(ペーニャ カワマタ)*1に参加するために福島へやってきていた。

昨年から参加していて、そのときはお爺ちゃんお婆ちゃんにゲリラで服を着せてゲリラファッションショーをした。

最初は恥ずかしがっていた皆さんも、とある女性にティアラをつけた瞬間「私も付けたい」と、自分から服を選び始めてとても感動したのを覚えている。人は年齢関係なくピュアな感情を持ち合わせているものなのだ。

「こんな山木屋(やまきや)*2見たことない」という言葉によって、来年も参加しようという意欲に駆られたのも、覚えている。

今回は、歌とダンスのパフォーマンスを絵の具で遊びながらというテーマのもと参加をした。ダンサーの男の子と共に、足元に絵の具をつけて、歌って、踊った。

絵の具を使ったライブにしたのは、理由がある。

(*1)福島県川俣町でこれまでに4度行われてきた、町おこしや世代や地域を超えた人々が一緒に“創り上げる”交流の場を目指すイベント
(*2)福島県伊達郡川俣町山木屋のこと

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福島県は、震災の被害からまだまだ脱しているとはとてもではないが言えない。

放射性廃棄物は未だに残っていて、山森林は手つかず。毎日「中身の見えない」真っ黒な袋が沢山のトラックによって運ばれている。住民の車より、とても多い台数で。震災によって住む人も減少した。

川俣町山木屋地区も数年前に避難区域から解除されたが、全員が故郷に帰ってくることはなかった。元の景色がない、放射線廃棄物仮置き場が設置されたあの風景が存在するあの土地には戻りたくないのかもしれない。

そんな無責任なことも僕には言えない。2011年3月11日、中学校三年生だった僕は体調を崩し、車に乗って移動をしている途中だった。

何が起こったのかわからず、テレビで流れていたあの恐ろしい風景は、全く実感がわかず、ゲームの画面を眺めているような気分だった。僕はわかったようなふりもできない。

と、浪江町の風景を見て思った。

行けども行けども建物がない、あっても「屋根付きのオブジェ」ともいわんばかりの中身が空っぽの建築しか残っていない。

元々、草原だったのではないかというくらい、草木が生い茂っている。海もとってもきれいで、とても美しかった。

でも、ここは2千人が住んでいた港町だったらしい。実際に見ても実感がわかなかった。受け止めきれなかった。

あの美しい海が、皆を豊かにしていた海が、突如地震によってすべてを飲み込んだのだ。その人らの気持ちを考えようとしても、全く想像のつかない。僕はその場にいなかったから。

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でも、慰霊碑へお参りに行ったとき、実感が湧いた。怖いくらいに、湧いた。涙が止まらなくなったのだ。

一瞬にして飲み込まれてしまった人らは、どんな気持ちだったのか。死んでいないのに、心に瓦礫がたくさん刺さりこんだような気持ちになった。それも、僕の感覚だから、本当のことはわからない。人の気持ちは。

だけど一つだけ言えるのは、実際に行ってみないとこの感覚も味わえなかった。そこはとても大きい。

メディアが飽きてしまった、東日本大震災の記憶

災害が起きても、人が立ち上がり、結束し、助け合えば変わるということも知った。

実際、浪江町も少しずつお店が増え始め、暮らせるようにはなっているようだ。

エゴマの田植えをやらせていただいたときも、反対側に新しいおしゃれなカフェができていて、この一年で少しずつ変わっていることを、この一年しか知らない僕でも感じた。

でも、決定的に変わらないことがある。

原子力発電所が犯した罪だ。人が作ったものは時として、とんでもないことを起こしてしまうことも知った。

僕が泊まった家には、とても綺麗な花がたくさん咲いていて、とても美味しい野菜があって、とても優しい人らが住んでいる。でも、反対側には放射性廃棄物仮置き場があり、とても不気味だった。みんなが笑っているこの場所が、黒い袋によって埋め尽くされている。

この袋たちも、どこにも行き場がない。いろんな市町区村で問題になっているようだ。

人が作ったものは、人に返ってくる。とても悲しいことだ。

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その、ステイさせてくれた優しい人が、朝、コーヒーを飲んでいるときに伝えてくれたことも、わすれない。

「この町は、もしかしたらいつか無くなる。老人が半分以上のこの町に、未来なんてないんだ。一票の格差だってある。風評被害だってある。だから、文太くんみたいに外からやってきて、川俣や福島のことを愛して話してくれる人が必要だ。それが、この土地に住んでいる人にも必要だ。だからこそ、Pena Kawamataが存在する。でも、このイベントもやっているのはほとんどは老人だ。だから、いろんな意見はあるけれども、若い人が集まって、参加してもらえたら、とても嬉しい」って。

こうやって生の声を聞くことの大切さは、計り知れない。

だから、僕はここに敢えて文章を載せた。

メディアがネタとして飽きてしまっている、東日本大震災の記憶を消してはならない。

ネタなんかじゃ、ないのだ。永遠に残るものなのだ。僕らは忘れてはいけない。

パフォーマンスも、そのためにしたのだ。(かなり遠回りな伝え方をした。笑)

あの、黒い袋に負けないくらい、みんなが笑って暮らしているあの町を、少しだけ、カラフルにしたかった。絵の具だらけの僕らを見た地元の子どもたちは「パリピ!」と叫んで混ざって遊んでくれた。

放射線量や様々な問題もあるだろう。それによって、この話題に賛否両論が、存在することも理解している。

それでも、僕は載せたい。せっかく、参加したのだから。

きっと助け合いながら生きていく

実は、パフォーマンスをした後、僕は体調を崩してしまって倒れていた。

その時にともに参加してくれたダンサーの男の子が介抱してくれた。

「友達だからな、こんなことくらい当然なんだ。助け合わないと」って。天の河が見えるあの空の下で、彼に見えない明かりの中で僕は涙を流した。

僕にも助け合いができる人が存在するんだ。きっと、どんなことがあっても助け合って生きていけるのだ。

だから、僕も何かしらの形で、他の形でも福島と関われたらよいと思う。もっともっと僕が成長して、胸を張って助け合えるように。

もっともっとカラフルな景色へと変わっていきますように。

また、福島行くね。

清水文太

Bunta Shimizu(清水文太)

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19歳にして水曜日のカンパネラのツアー衣装を手がけ、モデルとしてdoubletやMIHARA YASUHIROのショーにも出演。その活動の他にも『装苑』やウェブマガジンでのコラム執筆の他、渋谷TSUTAYAでのデザインディレクション、ギャラリーでのアート展示などを開催。スチャダラパーBose・ファンタジスタさくらだ夫妻、千葉雄大などのスタイリングも。
88rising所属JojiとAirasiaのタイアップMVにも出演。
RedbullMusicFesでのDJ・ライブ出演など音楽活動にも精力的に活動を始めている。
アーティストとして多岐にわたる活躍を見せている。

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