「ミュージシャンは政治的発言とかしない方がいいって言うよね」。私が“日本の常識”を疑い始めた理由|橋本 紅子の「常識」と「パンク」の狭間で、自由を生み出すヒント。#001

Text: Beniko Hashimoto

Photography: Jun Hirayama unless otherwise stated.

2017.6.21

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ヴォーカリストになりたくて、音大に通った。卒業してからはアパレルのバイトをしながらライブをしてきた。

音楽とファッション、みんながごく当たり前に好きなことを私も好きで、政治とか社会問題とか、そういう果てしなく複雑そうなことに興味なんてなかった。“そういうこと”は、興味のある人たちの専門分野で、自分とは遠く離れたところの誰かが勝手に進めてくれる話だと思ってた。

だけどある時ぼんやりニュースを見てて、流れている映像がなんとなく気になって、なんとなく、疑問を持ちかけた。でも、ニュースのコメンテーターの話にも政治家の話にもついていけなくて、「賛成」も「反対」も言えない自分がそこにいた。

このまま30歳とか、40歳になっていいんだろうか。そもそも、こういうのって何かしら自分たちに関係があるから公共の電波でニュースになってるんだよね?たとえば自分に子供ができたとき、その子の生きる社会で何が起きているのか、何もわからない親になっていいんだろうか。漠然とそう思って、検索窓にカーソルを運んだ。

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間違っても“意識高い系”とかじゃなかった。

子供の頃は友達とよく「Mステごっこ」をして遊んだり、初めて買ったSPEEDのCDをかけて歌ったり踊ったり。「あたし、歌手になる!」と勝手に宣言した当時の自分を何も疑わずに「将来の夢は歌手」と決め込み、中学生になった私は部活をさぼってカラオケに通い詰めていた。

「地元に行きたい場所がない」という理由で、高校は片道2時間かけて都内の私立に通った。今では「よく毎日早起きしたなぁ」と誇らしく思う。毎日遅刻してたけどね。校則のない自由な学校で、自主性を重んじて何事も生徒たちで決めさせることが唯一のルールみたいな場所だったから、「私はこう思う」「俺はこうしたい」という意見を個々が持ちやすく、発言しやすい環境だったように今では思う。

入学して間もない頃、選択授業で一緒になった隣のクラスの女の子からボイストレーニングの体験レッスンに誘われたことがきっかけで、原宿の小さなボーカルスクールに通い始めた。学校の音楽の授業もすごく楽しくて、やりたいことをどんどんやらせてくれる先生だったから歌うことが大好きになって、「将来の夢は歌手」というのも変わらず、大学はなんの違和感もなく音楽系へ進んだ。

大学では自分と同じ歌をやっていて、しかも上手い子たちにいつも囲まれていたから、「もっとスキルを上げて何か結果を出さなくちゃ」みたいな焦燥感に常に駆られていて、あまり自分以外のことに目を向けたりする余裕はなかったように思う。

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きっかけは偶然目にした“ある日のあるニュース”

大学を卒業して一年くらいしたある日、アパレルのアルバイトをしながらライブや制作活動をしていた私は、バイトの休憩中にたまたまテレビで流れてきたあるニュースに目が留まった。

それは「『集団的自衛権』を日本で容認するか否かの議論が国会で白熱している」という内容のニュースで、街行く人へのインタビュー映像なんかも流れていた。しかし、どの人も「賛成」とか「反対」とかはっきり意見する人は少なくて、どちらかというと「よくわからないけどなんとなく…」とか「え、全然わかんない」とか笑いながら答えている人の方が多かった。私はテレビの中の人たちをバカにできる訳ではなく、彼らと同じで、それについてどう思うかなんてよくわからなかった。

いつもの私ならそこで聞き流して終わっている。でも、気になってしまった。それはその時にテレビで流れてきた、銃を構えて戦闘訓練をしている自衛隊員たちの映像と共に「行けと言われたら行くしかないですね」「やられる前に自分がやらないと…」と話す彼らの張り詰めた言葉と表情がやけにリアルだったからだ。何かすごく不穏な空気を感じて、今この国で何が起きているのかきちんと確認した方が良い気がして、バイト帰りにスマホで調べ始めた。

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生まれて初めての「意見を言うのが怖い」という経験。

「集団的自衛権」とはざっくり言えば、他国との連携を強化するため、同盟を組んだ国からのヘルプ要請があれば、例え日本が攻撃されていなくても他国間の戦闘に駆けつけ、同盟国側を支援するという内容だった。私はそれを知って、推進派の人が言う「同盟を強化することで日本も安全になる」という意見よりも「自分たちが攻撃されてもいないのに、よその喧嘩に首を突っ込んでいったら、不要に恨みを買い危険にさらされることになる」という反対派の意見に共感した。

分からないなりに調べて考えてみたけれど、周りの人はどう思ってるんだろう。やっぱり自分と同じようにあまり関心はないんだろうか。そう思って、Facebookに思ったことを書き綴ってみた。それまで政治的な発言なんてしたことがなかったから、いきなり何を言い出すのかとぎょっとされるかもしれないとか、どんな反応が返ってくるのかが怖かった。反論されてもどう答えたらいいか分からないし、もしかしたらブロックされるかもしれない。

昔から割と言いたいことは言うタイプだった自分にとって、「意見を言うのが怖い」という経験自体がその時初めてだったように思う。

しかし、思いのほか反響は多く、投稿には「それ私も気になってたんだよね」というコメントや、長いこと会っていない知人や大学の先生からも賛同の言葉をもらって、言葉にしてみてよかったなあと思った。逆に「真面目かよ(笑)」と茶化されたり、気が付いたら友達にブロックやリムーブ(フォローを外すこと)されていたこともしばしばあった。少し悲しい気持ちにはなったが、想定していたことでもあった。

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「一般的にミュージシャンは政治的発言とかしないほうが良いって言うよね」

 音大卒業後、同期や後輩ら大人数で飲みに行ったことがあった。その頃私は、集団的自衛権のニュースから派生して既に色々な社会問題に関心を持つようになっていて、SNSで頻繁にそんな投稿をするようになっていた。それを見ていた友人の一人が「最近紅子の投稿読んでると色々考えさせられるよ」と声を掛けてくれたのをきっかけに政治の話は始まった。

すると、その場にいた一人の男の子が「でも、一般的にミュージシャンは政治的発言とかしないほうが良いって言うよね(笑)。大丈夫なの?(笑)」と私に言ってきた。彼は私を心配して忠告してくれたのかもしれない。だけど私はその一言に失望し、無性に腹が立った。彼自身に腹が立ったというよりも、「公の場で意見は言わない方が身のためだ」という理論が日本で「一般的(=常識、当たり前)」と認識されていて、それが疑問視されるどころか丁寧に遵守されている現実に失望し、腹が立ったのだ。

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「思想や表現は社会を作り、沈黙はそれを殺す」

「ミュージシャンは政治的発言とかしない方がいいって言うよね」。

あの日、飲み会で言われたこの言葉を定期的に思い出す。でもそう言った彼が好きだったのは、あろう事かパンクロックだった。パンクの起源はもちろん、そのほかの音楽にも、アートにもファッションにも、カルチャーの生まれる背景には必ず社会とそれに対する思想がある。

確かに、日本の地上波で流れる音楽番組を見ていて社会や政治の話が出てくるようなことは皆無と言ってもいいように思う。芸能人のSNSにも、社会や政治について何か書く人は多くない。それに対して、例えばアメリカは大統領選の時、多くのミュージシャンやセレブたちが大々的に支持する候補者をアピールするなど、自分の思想や意見を公表することに日本ほどためらいを感じていなかったように思える。その日本とアメリカの違いは何なのだろうか。

「日本人は和を大切にする」とか「出る杭は打たれる」といった言葉をよく耳にする。「出る杭」とは一体、誰から見たどんな存在のことなんだろうか。確かに「私はこう思う」と意見を表明すれば、そう思わない人からの反論や、もっとすれば反感・失望すらも囁かれるかもしれない。どんなイシューだってYESもNOも言わずにいれば、衝突も摩擦も起きないかもしれない。だけど、表面的な「協調」や「和」を保つために思想や言論を尊重しなくなった社会に、多様性や自由なんて存在しなくなるのではないだろうか。いや、「多様性」とか「自由」なんて言葉自体、もはや当たり前にそこに在りすぎてピンと来ないかもしれない。

でも、食べたいものを食べ、着たいものを着て、学びたいことを学べる時代に生きている私たちから自由や多様性を奪ったら、そこに残るのはどんなに生き辛い世の中だろう。日本人が大切にすると言われる「和」なんて、そこにはもはや存在しないはずだ。「思想や表現(意見すること)は社会を作り、沈黙はそれを殺す」と私は思う。

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「常識」と「パンク」の狭間で想像力を働かせることが、自由を生み出すヒント。

別に、みんなが世の中で起きている全ての出来事を専門家みたいに語れる必要なんてない。社会問題って、思っているほど堅い話なんかじゃなくて、身の回りの至る所に存在している。

それは何も政治や社会問題という枠に限ったことではなく、日常のちょっとした出来事や、流行や価値観に対する疑問だってそうだ。というか、政治や社会問題というのは拡大すれば、そういうことを指すのだ。

例えば私たちは気が付いたら“ゆとり世代”とか“女子力”とか、誰かが作ったステレオタイプな物差しの上に生きていて、そんな基準はどこかで歪(ひず)みを作って時に自分たちを苦しめる。

この社会は、常識は、誰のためにあるんだっけ?

少しだけ興味を持って想像してみることで、思っている以上に自分たちの生きる土壌(社会)は自分たちで耕すことができるし、それは紛れもなく自分たち自身を自由にする。「社会問題」なんて漠然と言われると想像しにくいけれど、知らない間に常識化していた身近なことを手に取って、1つ1つ紐解いていみることで、“本当にそれでいいのかな?”とか“そんなに囚われなくていいのかも”とか、自分に合った答えや選択肢を探していけるようになるかもしれない。

次回予告

次回の連載は「ゆとり世代」について、世の中の人々の感じることをもとに書いていこうと思います。そのためのアンケートを作ったので、ご回答いただけると嬉しいです!

ゆとり世代(1987年4月2日生まれ~2004年4月1日生まれ*)の方は1つ目の質問に、ゆとり世代以外の方は2つ目の質問にお答えください。

(*1)ゆとり世代の該当範囲には諸説ありますが、ここでは1998年に改訂され、2002年から施行された学習指導要領の教育を受けた世代を指しています。

*ゆとり世代(1987年4月2日生まれ~2004年4月1日生まれ*)の方

*ゆとり世代以外の方

BENIKO HASHIMOTO(橋本 紅子)

Instagram

神奈川県出身。音楽大学卒業後、アパレル販売をしながらシンガーソングライターとして活動を続ける。2015年5月に結成されたSEALDs(=自由と民主主義のための学生緊急行動)に参加しSNSやデモ活動を通して同世代に社会問題について問い掛けるようになる。

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※こちらはBe inspired!に掲載された記事です。2018年10月1日にBe inspired!はリニューアルし、NEUTになりました。

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