こんにちは!EVERY DENIMの山脇です。EVERY DENIMは僕と実の弟2人で立ち上げたデニムブランドで、3年間店舗を持たず全国各地でイベント販売を重ねてきました。 2018年4月からは、毎月キャンピングカーで日本中を旅しながらデニムを届け、衣食住にまつわるたくさんの生産者さんに出会い、仕事や生き方に対する想いを聞いています。
本連載ではそんな旅の中で出会う「心を満たす生産や消費のあり方」を地域で実践している人々を紹介していきます。
今回紹介したいのは、靴下の国内一大生産地、奈良県で家業の工場を継いだ西口功人(にしぐち いさと)さん。
幼い頃から「工場が遊び場」というほどものづくりが身近な環境に育ち、高校生の頃には実家の靴下業を継ぐと決めていたという彼。
2012年の入社後、ブランド事業や海外展開など会社に様々な変革をもたらしています。これからもいきいきとしたものづくりを続けるために、功人さんが挑戦を辞めない理由を伺いました。
ずっと靴下をつくりたかった
功人さんが勤める「株式会社ニット・ウィン(以下、ニット・ウィン)」があるのは奈良県葛城市。2つ隣の広陵町は国内最大の靴下生産地で、日本の靴下づくりの歴史をつくってきた土地でもある。
ニット・ウィンの前身となる「西口靴下」の創業は1950年、創業者の西口勝次(にしぐち かつじ)が編み機1台で靴下づくりを始めたのがきっかけだった。
多くの製造業と同じく、高度成長期は靴下市場も順調に拡大するが、1980年代にはその波も落ち着き、2代目・西口勝博(にしぐち かつひろ)の代となる1990年頃には徐々に規模が縮小する中で、会社経営も変革を迫られるようになる。
特に必要だったのは、戦略的な営業力。勝博は入社してからそこに注力し、新しい販路を次々に開拓していった。特に、先代が開発した「温泉たび」を全国に広げたのは勝博の功績だという。
2代目は、初代で苦しかった状況を切り抜け、時代を乗り切ります。それは本当にすごいこと。本人は目の前を進んでいたら勝手に道がひらけたと言っていますが、彼には本質的に正しいことをやりきる才能があるんだと思います。
2010年代に入り、インターネットの本格的な普及によって新たな変化を迫られる中、これからの会社の舵取り役として任されることになったのが、3代目の功人さんだった。
大学で流通マーケティング学科を専攻し、新卒入社した大手衛生用品メーカーにて営業とマーケティング職を6年勤めた彼は、2012年に家業に舞い戻ってきたことを「ある意味、プラン通り」だと語る。
高校生の頃から、いつか家業を継ぐということは意識していました。そしてそのいつかは、会社の業績が順調なうちがいいなと。進路も就職も実家の靴下業に活かすため費やした10年間、環境に恵まれ、力をつけた上でプラン通り28歳でニット・ウィンに入りました。
3代目として戻った頃、会社はまたしても変革を迫られていた。先代の頃に比べ、靴下業界を巡る環境はますます激しく変化している。
まずは当時ブームだった「冷えとり靴下」の市場が飽和を迎えていたこと。その中で国内の生産量は減り続け、海外にシフトしていること。さらに日本の人口はこれから減少の一途をたどるということ。
小規模工場にとっては厳しい条件がつきつけられる中で「なんとしても靴下業界で最後まで生き残ってやる」と意気込む功人さんはまず、企業として自分たちのものづくりを体現する新たな手段を探し始めた。
そうして誕生したのが「はくひとおもい」というコンセプトを持つ「NISHIGUCHI KUTSUSHITA」という靴下ブランドだった。
その靴下は「はくひとおもい」なのか
2017年からスタートした靴下ブランド「NISHIGUCHI KUTSUSHITA」。最新の編み機だけでなく、ニット・ウィンで今も現役稼働する“オールドマシン”(古い機械)も使用した天然素材のソックス製品が特徴だ。
これまでニット・ウィンの事業は「OEM(委託された相手先ブランドの製品を生産すること)」がほぼ100%を占めていた。クライアントありきのビジネスだけでなく、これからは自分たちのブランドとしてNISHIGUCHI KUTSUSHITAを育てていくことで、健全な事業のバランスをとっていく方針だそうだ。
そんなNISHIGUCHI KUTSUSHITAのコンセプトは「はくひとおもい」。履く人のことを真面目に考えてつくること。先代から続くニット・ウィンの靴下づくりの原点とは何か。考え続けた結果、この言葉にたどり着いたという。
「はくひとおもい」はブランドのコンセプトであり、行動の指針、判断基準でもあります。自分たちはこれから何をすべきで、何をすべきでないか。モノに溢れたこの世で様々な靴下づくりの選択肢が考えられる中、常に「それは“はくひとおもい”なのか?」を自分に問うています。
例えば、編み機ひとつにとっても、最新の機械を導入すれば、熟練した技術者の必要性は少なく、オートメーション式で、これまでにない生産効率で大量の靴下を編むことはできる。
それに対して、昔のオールドマシンは機械を触る技術者に高い技術が必要で扱いづらい存在だ。
とにかくたくさんの靴下を作るのが目的なら、その機械をいち早く手に入れるのが正解だろう。しかし、それは果たして「はくひとおもい」なのか。高い機械さえ導入すればどこでもつくられる靴下を生み出すことは、果たして、これまで歴史ある靴下づくりを続けてきた自分たちの取るべき手段なのか。
そもそも資本力において大手や海外大規模メーカーには太刀打ちできないニット・ウィンがそういった機械の生産能力で勝負を仕掛けても仕方がない。それはやるべきことじゃない。
自分たちがすべきことは、技術力を要す機械を操り、これまでにない靴下づくりにチャレンジすることだ。古くからある、もうやり尽くして追求のしがいなんてないと思われている機械と向き合い続け、呆れられるまで真摯にものづくりに取り組むことだと。それが「はくひとおもい」なんだと。
時代の流れとしては、より安くより大量に作らなければ工場は生き残っていけないのが常識。世の中の現役編み機がどんどん新しいものに変わる中、オールドマシンの高い技術は継承されず、途切れる寸前の状態です。
だからこそ、継承したくてもできなかったオールドマシンの技術を使い続けることが私たちの強みの本質だと誇りを持っています。
この時代に今更オールドマシンでの靴下づくりを本気でやりきろうなんて他に誰も思わないだろう。しかし、だからこそ「まだやれる」という追求への姿勢がニット・ウィンの、NISHIGUCHI KUTSUSHITAの唯一性を生み出しているのだ。
届け手への確かなリスペクト
「はくひとおもい」を掲げ、靴下づくりに注ぎ続けるニット・ウィンの情熱は伝播し、NISHIGUCHI KUTSUSHITAは全国での取り扱いを増やし続けている。
工場の人たちというモノのつくり手。そんなつくり手が製品に込める想いををしっかりと評価してくれるバイヤーたち。想いの込もったものづくりをちゃんと理解し、きちんと表現するお店という届け手のおかげで、確かな熱量を持ってつかい手であるお客さんの元までNISHIGUCHI KUTSUSHITAは届いている。
自分たちから過度な営業はしない。無作為にラインナップを増やすこともしない。売れるからという理由で種類を増やしてしまっては、ブランドとして軸がブレてしまう。僕らの靴下を良いと思ってくれる消費者、そして届けてくれるバイヤーさんの存在は本当に貴重で、彼らへリスペクトの想いがあるからこそ、何をつくりどう届けるのかを大切にしたいんです。
今年は海外への展開や、新ブランドリリースにも注力。業界や会社が不安定なのは、挑戦してもしなくても同じ。であれば挑み続けるべきだと。そんな姿勢でニット・ウィンは売上を伸ばし着実に前に進んでいる。
順調すぎるように見える3代目のニット・ウィン成長物語。これからの展望について最後に伺ってみた。
僕はニットウィンで働くにみんなに誇りを持って仕事をしたいししてもらいたいと思っています。それが衰退していく二次産業であっても。業界水準以上の給与はもちろん、ブランドを通してたくさんの消費者に直接モノを届けることで感じるやりがい。それがきっと次の開発の原動力になるからです。誇り高きみんなと「世界一のブルーワーカー集団」になりたい。
取材を終えた功人さんへの印象は、一切の皮肉なく「エリートだなあ」ということ。高校の頃から家業を継ぐことを意識しているのも、そのために大学で商学を学んだことも、新卒で大手メーカーで一流ビジネスマンになったことも。
あるべくして今のニット・ウィンがあるし、NISHIGUCHI KUTSUSHITAがあるんだと腑に落ちたことを覚えています。
覚悟が決まった人間の意志の強さ、やるべきことが定まった人間の探究心の深さ、自分たちの価値観を表すコンセプトの大切さ、僕も、ものづくりに携わる一人の人間として、たくさんのことを功人さんから学びました。
仲良い取り扱い店の人から「変態」と称されるまで、靴下づくりに真剣に向き合う功人さん。世界一のブルーワーカーを目指して、彼が舵を取るニット・ウィンから、これからどんな靴下が生まれ国を超えてたくさんの人に愛されていくのか楽しみでなりません。
ニット・ウィン
1950年から続く靴下製造メーカー。創業時から思いを受け継いだ、三代目西口功人を中心に、職人歴50年のベテランから、未来を担う30代の若い職人、パート従業員が一丸となり、自分たちのこだわりの詰まった「一日を変える靴下」をつくり続けている。