世界と日本を回りながら社会を見つめた一人の表現者が「0(ゼロ)になれる場所」をつくったわけ|FEEL FARM FIELD #001 後編

Text: Lisa Bayne

Text & Artwork: Lisa Bayne
Photography: Kensei Furuyama(0site)

2022.1.11

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前編では山梨県北杜市にある0siteに初めて降り立ち自分の畑を耕作するまでの話を綴った。今回は「そもそも0siteって何?」0siteを立ち上げた古山憲正って誰?」とか、10代から俳優業をこなし、20代前半を日本中や世界の色々なところを放浪しながら過ごした彼が何を考えてるのか、インタビューした。

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0siteって、なんでつくろうと思ったの?

社会のなかで生きているうちにインプットアウトプットする暇がなくなっていったことで自分自身が遠くなっているような感覚があって。何が良くて悪いのか分からなくなっている時代にそれを変えられるきっかけになる場所を作りたかったんだよね。東京とまったく違う舞台で、当たり前に手に入るものを自分たちの手で作れる驚き・喜びを体験しなおしたいなって。食や文化、生活や暮らしの仕方をもうちょっと整えて元に戻ってみることで、それぞれのゼロ(ありのまま)の自分を見つけてもらえる場所を作りたいと思った。

0siteが始まったのが2020年で、私と憲正が出会ったときがだいたい約4〜5年前。憲正が海外を放浪してちょうど帰国したときに出会ったけど、0siteを運営するまでは何してたの?

まあ、簡単に言ったら放浪してた。高校生のとき1ヶ月くらい東南アジアを回ったのが初めての海外旅行で、こういう世界あるんだ、って驚いて。物価安いのにご飯はめちゃめちゃおいしいし、街はうるさいし臭い。自分の知らなかった世の中と文化がそこら中にあるのが楽しくて。対照的なものに憧れてもっと世界を知りたいって思うようになった。

大学に入ったとき、親戚のいるブラジルのサンパウロを通りながら南米を縦断しようと思った。アマゾン川を通ってアナコンダ探したり、ジャングルに行ったり、マチュピチュ見たり。日本に帰ってきてまたヒッチハイクして、そのあとイスラエルにあるキブツっていう共同体で過ごして、2020年に帰国してきた。出会ったときは理紗はまだ高校生だったよね。

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ウユニ塩湖(ボリビア)にて。金太郎の格好をした憲正

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マチュピチュ(ペルー)にて

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アマゾン川にて

懐かしいね〜。憲正の南米の話が面白くて、みんな聞いてないのに私だけ興味津々に質問しまくってたの覚えてる。でも、海外から帰国して日本でヒッチハイクしたのはなんで?

俺このままじゃ社会で生きていけないな〜って思ったんだよね。いろんな人の暮らしを見ている中で、スーパーで野菜とか便利になるものを買わずに育てたり自分で作ったりしていくところを目で見てすごいカッケーなーって思った。自分で薪割って暖をとったり畑やったり。

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写真は日本のとあるコミュニティ。自分たちで土釜を作って、手作りのベンチで暖をとる

お金なんて必要ないっていうモードになった。でも、そう簡単にいかないんだよね。その時は税金とか年金とか保険とか携帯代とか、そういうの何も考えてなくて、普通に馬鹿だったと思う。タダ飯してタダで車乗せてもらって、そういうことばっかりやってたからあまり社会の中で生きてなかった。でも、お金がなかったら何もできないってわかったんだよね。もしお金がなかったら、人類が作った都市も想像できなかったし山奥に家も建てられなかったと思う。食べ物を大量生産して届けることもできなければ、世界中から美味しいものをそれぞれ分けることもできない。やっぱりお金があることによってこういう生活水準が整えられているから、お金の凄さを思い知らされる。実際そういうシステムになってるわけで、人類の進歩のためにお金があるってすごいな、って。俺は全然金ないけど、いいなーって思う。

それから日本でのヒッチハイクはどこに行ってたの?本当にグーってやったり、段ボールに書いたりするの?私でもできるかな?

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日本だと、東京から関西方面に向かって横断してた。滋賀とか京都とか行ってたね。
グーってやってたし、用賀のジャンクションってヒッチハイカーの聖地って言われてるんだけど”埼玉のジャンクションまで”って段ボールに書いて車に乗せてもらったりしてた。

それからまた声かけてくれた人と交渉したり話したりして、連れてってもらえるところまで乗せてもらう、みたいな。たぶん理紗なら簡単にできるし乗せてもらえるよ、危険かもしれないけど理紗は運いいから大丈夫でしょ(笑)俺も運いいし。
一番怖かったのは、車に乗せてもらって喋ってたら「殺人で捕まって最近出所したんだ〜」って言われた時。結構そういう興味深い出会いもあった。

イスラエルのキブツに行こうと思ったきっかけや向こうでの生活はどうだった?

日本を放浪してる時に出会った女性からキブツっていう共同体について教えてもらったんだよね。今の日本にある資本主義社会とは別のシステムで生きているユダヤ人がいるから、そこを体験したらいいんじゃない?って。彼女はけっこう軽く言ったつもりだっただろうけど、俺からしたら「え、やば!行きたい!」ってなってそのあとキブツが存在するイスラエルに行ってしばらく生活してた。イスラエルのキブツって、日本の昔の村社会みたいに100〜1000人で共同生活してるんだけど、自分たちの理想としている社会に近づこうとして支え合っていて、まさに俺が考えてる理想の社会だってその時は思ってた。

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ルームメイトとキブツで暮らす人々

だからこそ、なんで日本の社会ってこんなに忙しく競争して嫉妬し合うんだろう?なんで自ら苦しむんだろう?って思っていて、キブツにはそういうのがなかった。仕事の時間はみんなのために働いて、終わったらゆっくりする。ご飯の時間になったらみんなで一緒にご飯を食べて、みんなで洗濯をする。みんなにご飯を振舞うためのシェフがいたり、全部を共同で行っている社会って魅力的だなって。
日本の社会って個人で自分のためだけに働いてる感じがするな、いやそうでもないな、どうなのかなとか色々考えちゃってたんだよね。

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憲正ってさ、10代から表現者として社会を経験してたわけじゃない?お金をもらい、それと同等もしくは越えるものを表現で返す、何か仕事をするっていう。そういう責任を持って対価を払うってそうそうできるものではないし、そのシステムに対して違和感とか障壁ができてたのかな、と聞いてて思ったよ。見えないなにかに怒っているというか、でもそれが自分でも何に対して怒っているのかわからなかったからこそ、放浪していく中で出会った人や場所によって昇華していたように思えた。その時のターニングポイントがキブツだったの?

いや、共産主義社会のような別の世界を目の当たりにして魅力的には感じたけど、これでもないなあってなったんだよね。俺はすごいわがままだし、ちょっと変わってる人間だと自分で思ってたから、そういう個性が失われる社会も違うなぁ、と。資本主義社会の考え方だと、お金があることによって自由に動けるし個性も尊重される。だからといってこのままの社会だとダメだって確実に思った。自分の生活を見直して、自分たちで生み出していきながら修正と挑戦を繰り返すっていう、今の社会では少し対照的なことを日本で表現としてできたらと思い始めたんだよね。それが0siteなんだと思う。

0siteは山梨県北杜市にあるけど、なんで北杜市を選んだの?

ビルが少なくて山も綺麗っていう世界って地方に行けば北杜市以外にもあるし、海外にもある。北杜市のなにがいいかって、俺も理紗も刺激し合える成長し会える距離にあることだと思うんだよね。東京っていう競争社会の中で生き生きしてるやつらがいて、そこともコミュニケーションできる立地であること。東京から約2時間でこれて、俺も生活の中に東京に行くっていうルーティンができてる。
理紗とも会えるし、イベントにもみんなを呼んで今(インタビューを受けて話す)みたいに共有し合える時間がある。だから俺もすごいエネルギーをもらえるし与えたいとも思う。そういう相互作用がこの北杜市益富の秘境の山奥でできているのが俺の生き方なのかも。それが楽しい。

0siteを始めて、私みたいな若者が実際に少しずつスペースに足を運んだりそれをきっかけに二拠点生活を始めてる人もいるよね。そうやって地方と都市をつなげていく中で、難しいなって思うことはある?

若い人が地方に移住することがその地域や人のためになっているかはやっぱりわかんないな。例えば地方や村によって受け継がれてる決まりとか行事だってある。それこそ耕作放棄地だって、若者がいれば力仕事もできて畑をやってくれたら助かると思う。でも果たしてそれが本当の意味で村にとっても自然にとってもいいことなのかと聞かれたらわかんない。

それをしたからといって前から住んでいる村の人たちが最終的に描いている物語ではないのかもしれないし、俺も実際そこらへんまでは地元の人と話してないかな。
例えば益富だったら、何もないのがいいところだと思ってて。若い人もいないし、村の人たちもあーだこーだ言わないで平和に静かに時が流れてる。そこにめっちゃ人がきたり若い人が舞い込んできたら、むろん空気感や環境も変わっていって愛せなくなるし気に食わないだろうなって。人をたくさん呼ぶことによってこの空気が変わっちゃうことが難しいところかな。俺もこの村を知ってほしいし、村のために若い人が移住してきて御老人の力になったらいいなとは思うんだけど、そこらへんは俺も葛藤しているところ。

今後やりたいこととか予定していることはある?

主にイベントだね。コーヒー豆の焙煎体験とか梅の収穫体験をしたり、農業を手伝ってもらったりとかかな。こないだは(10月)地元のおかみさんに協力してもらって蒟蒻を芋から作ったりした。宿泊も可能で少しずつインフラは整ってきてると思う。夜はみんなで焚き火を囲んでご飯を食べたり、音楽家の人を呼んでライブもしたり。0siteのイベントでゆっくり火を見るとか、山羊や動物たちと触れ合うとか、土をいじるとか。
その豊かさを感じることができたら、きっと都会での暮らしや時間の使い方を変えたいと思うだろうし、そういう考えや感情が自然に生まれる場所にしたい。でもそれって意外と難しくて。理紗みたく、また北杜市に継続的に来てくれるような人ってやっぱり多くはない。
これからはイベントにとどまらず地方に移住する支援とか、ベランダファームのような東京で家庭菜園できる支援とか、やっていきたいことはいっぱいあるんだよね。あとは、山を開拓してみたいんだ。自分で木を切って平地にして小屋を建てたいんだよね。露天風呂なのかサウナ小屋なのか、そういうのを作りたい。

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夏に行われたイベントにて。キブツで過ごした経験からつくられた0siteは、同じように丸太を椅子がわりに人が集まり、畑のために人々が協力して手を取っている

そう考えたら、人間が誕生してから自分たちの手で作ってきたものってすごくたくさんあるし、考えて実現してきたのってすごいね。だってキャンプ場とかスキー場もそうだし、バンガローとかもそうやってみんなで作ったってことだよね。

いやだから、人間ってすごいんだよ。昔の人は印をつけることで道を開拓して登山道も公道も存在してる。山だったところから岩をどかしたり、砂を入れたり、川を埋めたりして馬車とか車の道を作ってるし、すごいよね。
俺は野菜はひと通り作れるようになったから、今年は“住”に力を入れようかなって。俺のこれからの生き方を想像すると、衣食住を極めてると思うんだ。自分の手で何かを作っているっていうことにすごくワクワクするし、生きてるって思う瞬間が日々ある。それをやり続けてるのかなって。村づくりとかもしたいなとは思うけど、それが最終的なゴールなのかもわかんない。俺は本当に興味あることをただやってるだけで、それを見て興味を持ったらただ来てくれればいいだけだし、お金が還元されればもっと助かるし。そういう時間を誰かと共有できたら幸せだよね。

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私が高校生に初めて出会ったときの憲正は、とにかく好奇心が旺盛で目の前で起きている会話や出来事1つ1つに一喜一憂している南米から帰ってきた男の子といったイメージだった。一方、私はまだ本格的にモデルをしていたわけでもなかったし、むしろ新しい出会いや同世代のコミュニティ、知らない人や世の中に対して拒否感と期待感が入り混じっている多感な時期を過ごすあどけない高校生、といった感じ。
それからお互いいろいろな景色やたくさんの経験をしてきた中でこういった形で再会していることが非常に面白いし、そうはいっても私も憲正もまだ20代前半。
目まぐるしい変化とともに、日々東京で動き回ってはインプットアウトプットを繰り返している私にとって、憲正が同じ時間軸をゆっくりと別の次元で刻んでいるように感じた。
私はまだ自分の好奇心が色々な場所に散らばっていて、もっと知らないこと、行きたい場所を拾い上げていきたいし、それらを見つけながら思うままに反応するじぶんの五感と向き合っていきたい。思えば、初めて東南アジアに行って、欲のままに日本と世界を旅した時の憲正と近いのかもしれない。
イベントやワークショップは1ヶ月に1回程度のスペースでおこなって、予約や詳細については0siteまたは憲正のインスタグラムを見てもらいたい。

ということで今回はだいぶ長くなってしまい前編後編にわけましたが、山梨の初日の朝と畑ができるまでの話、畑を持たせてくれた0siteを運営する憲正へのインタビューを綴った。
もともと、憲正が東南アジアに行きたいと思ったきっかけは、私も知っている共通の友人でありフォトグラファーがインスタグラムに載せた東南アジアの写真だったそうだ。
その1枚の写真を見て、憲正は「カッケー!俺も東南アジア行きたい!」と旅に出たんだって。
そういえば、私が今の環境にいるきっかけも写真だった。当時15歳の私にモデルを頼んできた美大生にとってもらった写真を見て衝撃を受けたと同時に、「カッケー!私も写真やりたい!」とずっと続けていたスポーツをやめて、モデルやフォトグラファーのアシスタントとして業界に飛び込んだ。
それくらい私たちの持つ目というのは影響を与えていて「みる」という行為は私たちのこれまでとこれからに大きな役割をもっている。
見る目が変わる。という言葉があるけれど、私は山梨県の増富で見た最初の朝の光、最初に部屋へ出迎えてくれた人たち、最初に食べたご飯、最初に自分が育てた野菜を誰かに食べてもらった時の光景をよく覚えているし、その時を機会にほんの少し、「みる」ことに対して敏感になった気がする。
そういえば9月に私の個展があったのだけれど、そこに来てくださった知り合いの美術作家に「ベインにとって”みる”ってなんだと思う?」と聞かれたばかりだった。
“みる”ってなんだろう?もしこの文字を読むことができていて眼球から目の前にある像を認識できる機能を持っているのだとしたら、今自分の目の前に立ちはだかっている情報をきっかけにどれほど脳を動かして情報処理をしたり、それをもとに自分自身との感情と向き合って考えてるんだろうか?そうなると、結局のところ”みる”って目ん玉だけの問題じゃないのかな?とか。
1つ1つ自分の目に映った情報や景色を分析していたら1日24時間いくらあっても足りないけれど、0siteにさくっと訪れて”みる”ことに集中してみる日があってもいいと思う。

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