東京とソウルを拠点に活動するアーティスト・Kentaro Okawara。2023年6月に、東京では約4年ぶりとなる個展「BE THE ONE TOKYO」が原宿・BOOK MARCにて開催された。
彫刻、書籍、ストリートウェアのコレクションやコラボレーションなどさまざまなアウトプットに挑戦しつつも、一貫して「愛」をテーマに作品を作り続けてきた彼がどうして絵と出会い、作品を作るようになったのか。幼少期の頃からの記憶を辿り、今の作風にたどり着くまでの道のりを語ってもらった。
絵を描くようになったきっかけは、祖母との絵葉書交換
東京で生まれ育ち、父は会社員で母は専業主婦。決してアートに近しい家庭環境で育ったわけではなかったが、幼いころから絵やものづくりが身近な存在だった。
「祖父母の家では絵を買う習慣があって、祖父も油絵を描いたり、祖母は俳画を描いたり。二人とも趣味の延長でしたが、そんな背景もあるからなのか俺も絵を描くことが好きだったんです。祖母とは絵葉書のやり取りをしていました」
時には絵日記代わりに、ときにはポケモンやミニ四駆の絵を。一枚のポストカードをキャンバスに見立て、自分がそのときに好きなものや、描きたいものを描き、祖母へ送っていた。そして、祖母からの返事も絵で返ってくる。そんな絵葉書のやり取りが5年ほど続いたそうだ。
「あまり記憶がないんですけど、俺から始めたらしいんですよね。『おばあちゃんが1人で住んでいるから、寂しくならないように手紙を描く』って、言い始めたのがきっかけみたい。実家から5駅くらい離れた場所に住んでいて、近所だったんですけど(笑)」
他にも、おばあちゃんとは物作りをしてよく遊んでいた。Okawaraが一升瓶の蓋を集めるのに熱中したときは、一緒に酒屋さんへ行ったり、蓋を収納するためのコレクションボックスを作ったり。おばあちゃんがいなかったら、きっとこういった経験がなかったと話す。
「すごく楽しい思い出ばかりです。自分で作ったものや描いたものを誰かに見せて、反応があるのがとても嬉しくて。小さい頃に味わったそういうスペシャルな感覚は、今でも覚えてる。うちの環境はそれが当たり前にあったことに、とても感謝しています」
そんな幼少期を過ごしていたが、中学、高校と進学するなかで絵とは少し距離ができていった。
「高1まではずっとサッカーをやっていました。それ以降は友達とずっと遊んでました(笑)。美術の授業もデッサンばかりだったし、つまらなかったんですよね。絵を描くとすれば、落書き。教師の絵を誇張してユーモアたっぷりに描いて、それをたくさんコピーして友人に配るみたいな(笑)。人を笑わせるために描いていましたね」
絵を描くことを問い続けた大学時代
そんなOkawaraが再び筆を取り始めたのは、大学受験前の頃。どこに進学するのかを決めるタイミングで、当時付き合っていた彼女から美大の存在を教えてもらった。
「彼女は服飾を目指していたこともあり、デザイン画なども描くからか、美術系の学校のことをよく知っていたんです。それまでは一応普通に受験勉強していたけど、いわゆる普通の大学に行ってやりたいこともないし、将来サラリーマンになる想像もできない。けど、絵だったら……?とは、少し思いました。とはいえ、美大に行って画家になる感覚もなかったけど、夏期講習に通うなかで『やっぱり違う』と思ったんです」
そこから美大に行くことを選択肢のなかに入れ、1ヶ月ほどデッサンの予備校に通った。そして試験を受け、一番最初に合格をもらった大学に進学を決める。キャンパスライフを送るなかで、自身を見つめるきっかけになったのが、大学2年生のころ。制作の授業の時間だった。
「例えば1枚の絵を描くにあたって、先生から『自分なりに解釈して描け』、『自分なりの作品を作れ』と、僕たち学生に話すんです。それまで考えてきてなかったことだったので、まずは自分らしさとは何かというのを考えるようになりました。そこで、ふらっと入った図書館で手に取ったのがバスキアの本。美大に入学したとはいえ、美術の知識がまったくなかったので、見た瞬間、『これやばい!俺がやりたいのってこういうことなのかもしれない』って、思ったんです」
それまでは、ペインティングをすることに対して、「こうじゃなきゃいけない」「綺麗に描かなくてはいけない」など、自分らしさがないなりに、自分の枠にハマった考えがあったというが、そこから意識が変わっていった。
「たぶん、“アートっぽいもの”を追いかけていたのかもしれません。けど、バスキアの画集を見て、“っぽい”とかそういうのじゃなくて、なんでもいいんじゃんって思えたんです。そこから、幼少期におばあちゃんとやり取りしていた絵葉書の記憶が蘇って、とくに脈絡もなく好きなものを描いてた感覚を思い出しました。改めて幼少期のこの環境が恵まれていたことを実感しましたね」
バスキアに感化されたOkawaraは、そこから彼の周りにいたアーティストや、影響を受けたアーティストを図書室で調べるようになり、コンテンポラリーアートや、西洋美術を学んでいく。
「アート以外で音楽も好きだったのですが、音楽をディグるように、図書館でアーティストをディグる日々でした。そこから派生して、美術史なども知るようになっていきました。昼は図書館、夜はアトリエにこもってひたすら制作。眠くなったら家に帰って寝るみたいな日々で、2徹、3徹も余裕でした(笑)」
図書館とアトリエを往復する日々。当時は、拾ってきたベニヤ板に描いたり、キャンバスを作って描いたり。オイルやアクリル、スプレーなどさまざまな画材を使い、見様見真似で制作をしていた。作る作品は、少しダークで鬼気迫るような絵ばかり描いていたという。
「全てはとにかくいい絵が描きたいというところから始まっていることなんだけど、そうするためには、自分がどん底である極限の状態であるときのほうが、いいものができるような気がしていました。だから、生と死みたいなテーマをよく考えていたし、自分とは少しかけ離れた絵を描いていたんです。今振り返ると、そういうものに憧れを抱くような時期だったんだなと思いますね」
自分の作品がどういうものかを見つめた先に見えるもの
Okawaraが一つ目の転機を迎えたのは、大学を卒業した2011年。在学中はアカウントを持っていなかったSNSを通じて、イラストレーターのオカタオカや、グラフィックデザイナーの加瀬透など、自分と同世代のアーティストと出会う。
「大学在学中はSNSを一切やっていなくて、友達にやってみたら? と、勧められてTwitterを始めました。大学在学中はずっと図書館にいて過去のアーティストをディグってたもんだから、現代アーティストを一人も知らなくて、今って画家とかいるの?っていう感じでした(笑)。それで、Twitterの検索機能を使って、『東京 画家』というワードで調べていくうちに、どんどん画家仲間みたいなのができるようになったんです」
そして2021年3月、同世代のアーティストやグラフィックデザイナーと共に、白金にあるギャラリー「hotori」でグループ展「Trippy Souls」を行った。
「学生時代にもグループ展に参加したことはあったけど、キャリアとしてはこの展示が初めてのグループ展だったなという感覚です。それぞれのアーティストと今も仲良いですし、みんな今となってはすごく活躍していて。大学を卒業したタイミングで、こうした同世代の仲間たちに出会えたことは、ラッキーでしたね」
大学を卒業してからは、アルバイトをしつつ絵を描き続ける日々。2014年には、初めての個展となる「DUST OF LIFE」を中目黒にあるギャラリー「Space M」で開催した。
「当時の作風は、赤・緑・黄・青などの原色を使って作品を描いていて、今とはまた違う強めな作風。けど、展示構成のようなものはこのときからか変わっていなくて、カラフルで大きい作品、小さい作品、そしてモノクロのエリアみたいな感じで分けてレイアウトしていました」
絵を描くことは、コミュニケーションだ
そして二つ目の転期を迎えたのが2016年。出版やグッズ制作などを行っているDANG DENG株式会社を運営している友人・平田崇人(ひらた たかひと)に子どもができたのをきっかけに、「うちの会社から絵本を出さない?」と、相談を受け、『桃太郎』や『浦島太郎』などの、日本昔話の絵本を作るようになった。
「こうして絵本を作ってみて、絵やクリエイションが持つコミュニケーションの力を感じました。例えば、俺が美術館に行ったとして、絵を見て鳥肌が立ったり、何かを閃きがあったりするのって、すごいことだと改めて思ったし、今自分が考えていることが、その見ている絵とリンクして、その考えが深まっていくこともある。言葉では説明できない部分だけど、アートが持つ多様なコミュニケーションのパワーを再認識したんです。自分で描いた絵本も、子どもたちや読んだ人にとって、何かインスピレーションになれたらいいなと思いました」
そういった気付きがあるなかで、これまで自身のことを見守ってくれていた家族への考えも変化した。
「大学在学中や卒業してからは、家族とあまり喋らない時期がありました。自分がこれから何をしていくとか、いつどうなりたいとか、自分でもきちんと分かってなかったから説明ができないし、そんな自分に少し引け目を感じているときもあって、うまく話すことができなかったんです。けど、少しずつ活動が広がってきたタイミングで、自分がオープンになってきたこともあり、まったく知らない人から自分の作品を理解してもらうよりも、まずは家族や友達に理解してもらわないと意味がないなと思ったんです。だから、遠い先のことを話すのではなくて、今何をやっているのかとか、次はこれをやるっていう、今のことを説明するように変えて行きました」
そうして徐々に制作の時間が増えていき、8年続けていたアルバイトも退職。2018年には、アメリカ・ポートランドでの個展が決まった。場所は、グラフィックデザインなども手がけているクリエイティブチーム「FISK」が手がけている「FISK Gallery」。Okawaraにとって初めての海外での個展となった。ポートランドは、2016年に友人を訪れ滞在したことのある、思い入れのある土地だった。
「2016年にポートランドを訪れたときに、現地に住んでる友人からおすすめされたのが、『Devil’s Point』というストリップクラブ。いわゆるダークな雰囲気のところではなくて、ダンサーがすごくフレンドリーで、カップルも行くところ。その場所のラフな雰囲気がすごく居心地が良くて、パジャマでキャッシュとパスポートとスケッチブックを持って、遊びに行っていました。来ているお客さんをスケッチしていたんですが、描いたものを渡すとすごく喜んでくれるんですよ。会話ができないのに、自分が絵を描くことで、言語・年齢・人種・性別・カルチャーとかそういうのを飛び越える感覚を味わいました。2016年の滞在期間中、毎日のように作品も作っていて、そのストリップクラブにもプレゼントしたんです。それで2018年の個展のタイミングでたまたま行われていたStripparaoke(ストリップカラオケ)コンテンストのトロフィー制作をオーナーのShonにお願いされたりもしました。そんな思い入れのあるポートランドで行った2018年の展示では、スタートする3週間くらい前にインして、2mくらいの大きいペインティング2枚と、小さい作品を30点ほど滞在制作しました」
そんな時間を過ごすなかで、迎えた個展当日。ショーのオープニングでの経験は一生忘れられない日になったとOkawaraは話す。
「俺のことなんて全く知らないのにオープニングに200人ぐらいの人が来てくれました。英語もろくに分からないのに、みんなが『ケンタロウ、おめでとう!』って、ハグをしてくれて。自分の描いた絵を囲んで、来てくれた人たちが楽しそうに笑顔で話す姿を見て、めちゃくちゃ感動して、ボロボロ泣きました。この風景を見るために描いたんだなーって。ストリップクラブでの時間もそうだけど、言語が通じなくてもここまで繋がるんだなと思った日でした。頼りになるFISKチームにも本当に感謝の気持ちでいっぱいです。彼らとは家族の様な関係です」
そのポートランドでの経験から、韓国やパリ、ロンドンなどの海外での展示が増えていった。
「言語や文化が分からないところでなるべく展示をしていきたいと思いました。海外から連絡をもらうこともあれば、自分でも声をかけたりしてブッキングしていきましたね。全く何も知らない土地で、いろんな人とコミュニケーションを取ることが自分には必要だと思ったんです」
愛というのものは、身の回りのことへの気付きである
そういった絵を通したコミュニケーションを重ねていくなかで、大河原の作風や考えにも少しずつ変化が現れる。
「根本的には変わってないけど、作品を発表していくことで、自分のペインティングでさらに多くの人とセッションしていきたい気持ちが大きくなっていきました。だから、絵だけではなくてアパレルや絵本を作り始めたのも、コミュニケーションの取り方の幅を広げていきたくて、アートと生活の距離感を考えるようになったからかもしれません。例えば、服だったら身に纏えるし、絵本だったらページをめくれる、映像だったらそれを見れるとか、全て生活の一部になれる。そこの部分を追求し続けている感じですかね」
今年の6月には、東京で4年ぶりとなる個展「BE THE ONE TOKYO」が原宿の「ブックマーク」で開催。4月に大阪で開催された「BE THE ONE」の続編となる展示だった。
「今回のために描いた新作で展示を行いました。去年の年末に、結婚したのをきっかけに生活がガラッと変わりました。パートナーは韓国人なのですが、日本と韓国をさらに行き来する機会も増えましたし、これまでは自分のペースで生活していたことが、自分の人生に彼女が加わるし、俺が彼女の人生にも加わるし。例えば、自分がお腹空いてなくても、彼女がお腹空いてそうだったら、『お腹空いた?』と聞いて、食べるタイミングを考えたり。相手のことを考えながら、自分の人生を生きるのがすごく新鮮だし、変。毎日のようにいろいろ気付かされています。結局、気付くことは愛に繋がると思うんです」
展示されたのは、大河原の作品のモチーフとも言える、人や動物、虫、お花、ハート、星。それぞれが喜怒哀楽の表情を持ち、さまざまな色や組み合わせでキャンバスに描かれた。展示構成は、鑑賞者との距離感や、見る順番、時間の流れなどが考慮され、大きなキャンバス数点、小さい作品、モノクロのゾーンと分かれて展示。多様な作品体験を提供していた。
「自分の作品のベースにあるのは、やっぱり愛。この言葉を聞くと、壮大なことを思われがちでもあるし、逆に薄っぺらくもある。けど、俺が大事にしたいことはそういうlove love loveみたいな感じではなくて、身の回りのこと。例えば、身につける服や歩き方一つとってもそうだし、彼女の顔色を気にするのもそう。そこに愛がなければ何も気付けなくなると思うんです。だから、自分が掲げる『more love』っていう標語は、もっといろんなことに気づけば、もっと幅広くコミュニケーションできるし、豊かになるよってことを伝えたくて。その部分が自身の創作の起点にもなっています。喜怒哀楽な表情があるのも、つい人間はそういう表情だけで人を簡単に解釈してしまうけど、それだけじゃない。喜怒哀楽も4種類だけではないし、人間は複雑な感情のなかで生きている。だから、一つを見て判断するのではなくて、多様な考えや感情があることの気付きになったらと思っています」
Kentaro Okawara / 大河原健太郎
大河原健太郎は、東京とソウルを拠点に、絵画、彫刻、書籍、ストリートウェアのコレクションやコラボレーションなど、さまざまな媒体で活動しているアーティストです。大河原の作品は、「芸術を作ることは愛の表現であり、互いに繋がる手段である」という彼の長年の信念を追求しています。それぞれの作品には、シュールでありながら親しみやすいキャラクターが登場します。人間、生き物、そして擬人化されたオブジェクトのカクテルが、親密かつ奇妙な方法で互いに作用し、誰もが愛着を持てる世界を作り出しているのです。大河原の鮮やかな色彩と様式化されたモチーフの世界のなかで、彼は目と目を合わせ、顔を合わせて直接コミュニケーションをとることの重要性を訴えています。私たちが主にインターネット上で考えや感情を交換しているように見えるこのデジタル時代に、大河原の作品は、もう一度考えることを、また互いの違いを認め合う事を、そして私たちが本来持っているはずの”人間性”を取り戻すことを訴えかけているのです。