オーストラリアのメルボルンで、理容師として働く一人の男がいる。Nasri Sobhani(ナシール・ソバハニ)さん28歳だ。これだけ聞けばどこにでもいそうな理容師であるが、実はこの男、“元ヤク中”という経歴を持っている。そんな彼は今、理容師としての技術を活かし、路上に住んでいるホームレスたちに無料でヘアカットを施している。
彼が路上ヘアカットを開始した経緯や、そこで出会った彼にとっての「新しい薬物」とは何であったのか。ナシールさんにインタビューをし、彼が経験したことやそこから得たものについて伺った。
「無料ヘアカット」を続ける「理由」とは
路上で生活をしている人たちのために無料でヘアカットをしているのは、僕なりの社会への恩返しなんだ。
そう語るのは、全身にタトゥー、そして薬物にハマった過去を持つナシールさんだ。彼は週に一度、休日に街に繰り出して路上で生活をしている、いわゆるホームレスたちの髪を切っているのだ。
1日に髪を切る人の数は、だいたい3~6人くらいかな。毎日何人の髪を切るかは決まっていないけれど、自分が外出するときには少なくとも一人のヘアカットはやろうと思うね。もちろんもっとやれる日はできる限り多くの人の髪を切るけどね。
一人の髪を切り始めたら他の人が「僕の髪の毛も切ってくれるかい?」と聞いてきて、自然と人が集まってくるんだよ。夜中までかかったこともあって、携帯のライトだけを頼りに髪を切ったこともあったなぁ。それはとても楽しかったさ。
とにかく「髪を切ることが大好き」と語るナシールさんだが、なぜ無償で路上へカットをしようと思ったのか。それを問うと、ナシールさんはこう答えた。
これは薬物中毒であった僕の人生を戻してくれた、社会に対する感謝を示す僕なりの方法なんだ。
そして、嬉しそうにこう話す。
ヘアカットは僕を“ナチュラルハイ”にしてくれる、僕の新しいドラッグさ。
ふと感じた、「なぜこんなことをしているのだろう」という葛藤
これまでに多くの人の髪を切り、今では路上のちょっとした有名人となっているナシールさんだが、路上ヘアカットの意義を自分自身に問わなければならない苦しい経験もした。
僕が路上でヘアカットをやり始めてすぐのことなんだけど、僕が髪を切っていた人がその地域のヘロインディーラーだったことがあったんだ。カット中に別の男が彼の元に寄ってきて、僕の目の前で薬物の取引を開始しようとしたんだよ。僕は思わず髪を切る手を止めてしまったね。そして「何で僕はヘロインを売買しようとしている人たちなんかのためにヘアカットをしているのか」と自分に怒りを覚え、心の底から落胆したよ。
しかしナシールさんは、「今自分ができることはそんな人でも否定せず、全ての人を心から愛して髪を切ることだ」と思い、彼のヘアカットを続けたという。そしてその日から1カ月後、ナシールさんはまた同じ男と偶然再会することになった。そこで彼は思わぬ変化を遂げていたのだ。
彼は僕を見るなり「ヘアカットをしてもらった日から薬物と関わることを辞めた」と言ったんだ。少し肉付きもよくなって明らかにいい表情をしていたね。
ナシールさんのヘアカットが彼の生き方を変えたようにも思えるが、ナシールさんは逆に彼から希望をもらったと話す。
僕は彼から「誰もが2度目のチャンスを持っている」ということを教えてもらったよ。ヘアカット一つで彼らの人生を劇的に変えることはできないけれど、一度自分を信じることができれば人は本当に自分の人生を変えることができるんだ。
10歳でホームレス、11歳でヘロイン中毒となった「青年」との「出会い」
またナシールさん曰く、「彼からその話を聞いたときは寒気がした」というほど辛い過去を持つ一人の青年との忘れられない出会いもある。
ナシールさんがその青年、クリスさんと出会ったのは、ちょうど彼が22歳の誕生日を迎えた日のことであった。聞けばクリスさんには頼れる家族はおらず、わずか10歳の頃からホームレスとして生活をしているそうだ。「暑い日でも、学校で長袖長ズボンでいることは辛かった」と言うクリスさんの言葉の意味を問うと、それは「父親から受けた虐待の傷を隠すため、どんなに暑い日でも肌を見せた恰好ができなかった」ということであった。
そんな彼にはどこにも逃げ場はあるはずもなく、10歳にして彼にとってはまだ“安全な聖域”であった路上で生活することを決めたという。その後は11歳にしてコカインに手を出し、最終的にはヘロイン中毒となってしまった。そんなクリスさんに対し、ナシールさんは数週間の間に2度のヘアカットを行い、本人の希望で顔の髭もサッパリと剃り上げた。そして2度目のヘアカットの後、明らかにクリスさんの表情は変わっていたという。
最初はとっても臆病だった彼が、2度目のカットの時には冗談を言ったりしたんだよ。カットが終わって彼が鏡を見た瞬間の彼の表情は、僕が彼に会って以来最も幸せそうな顔だったね。
この出来事はナシールさんにとって最も心温まる思い出となった。
クリスは子どもの頃は辛い経験ばかりだったけれど、22歳以降の彼の人生が多くの愛と幸せで溢れることを心から願っているよ。
聞いてくれる「誰か」がいることが、「チャンス」に変わる
傍から見れば、明らかにホームレスたちを助け奉仕をしているようにも見えるが、ナシールさんにその意識はない。なぜなら彼もまたホームレスたちに救われていると感じているからだ。ヘアカットにお金は発生しない。しかしそんな想いも込めて彼はホームレスたちを“路上のお客さん”と呼ぶ。
自分自身を嫌い、鏡さえ見たくない時期が僕にもあったよ。それと同じ感情を僕の「路上のお客さん」たちも持っていると思うんだ。彼らは自分の事を恥じるがあまり、自分のことを語ろうとしない。でも、その一方で自分の事を語りたい、一人の人間として接して欲しいという想いも持っているはずなんだ。僕は友達の話を聞くのと同じように彼らの話を聞いてみたいんだ。もしかしたら、そういった繋がりが彼らに開かれたチャンスを与えることになっているのかもしれないけど、それは僕の心を穏やかにし、僕自身の人生も変えてくれることでもあるよね。だから「路上のお客さん」に僕は感謝しているよ。
今後は路上ヘアカットの非営利団体を世界中に作り、一人でも多くの人に希望を与えていきたいそうだ。
ホームレスたちはただ自分の話を分かち合える誰かと繋がりたいんだと思う。小さなことだけど、それは彼らにとって、尊敬や敬意を持たれたということを意味するからね。
今日もナシールさんはどこかの路上で髪の毛を切っている。それにより、多くのホームレスたちが誰もが持っている2度目のチャンスを手にしているであろう。しかしナシールさんが語った、「自分を信じることができれば自分の人生は変えられる」という言葉は、きっと誰の心にも響くはずだ。
※こちらはBe inspired!に掲載された記事です。2018年10月1日にBe inspired!はリニューアルし、NEUTになりました。