世界中の社会派なアーティストを紹介するBe inspired!のシリーズ「GOOD ART GALLERY」。今回編集部は、とあるビジュアル哲学者に東京・神保町のカフェで落ち合った。彼女の名はBUCKLEY(バックリー)。ニューヨークとLAを拠点に活動するビジュアルアーティストである。
絵画から彫刻まで幅広く制作活動に専念する彼女の作品は、ミニマリスティックな構成と柔らかなカーブをなすシンプルな線が一貫した魅力。また特徴的なのは非常に本能的なその制作プロセスだといえるだろう。事前に何を作るのかを計画することはなく、すべてが即興だという。
「わたしはファックスプリンターなの」ーー急に訪れるというクリエイティビティを自分は具現化しているだけだと彼女はチャーミングに話した。
そんなバックリーが日本に来る直前に、日本をテーマに制作したという新作冊子『保持方法』について、アメリカに帰国した彼女に改めてメールでインタビューを行った。
2018. FOR JAPAN & AARON
ーまず改めて、東京はどうでしたか?
長年の夢が叶って東京に来られました。想像以上でした。もう東京を離れたけれど、今でも「和」、「秩序」、「尊敬の心」、そして「静けさ」を私のなかに感じています。東京に触れて、私は深く変わりました。大都市でも平静を保ち、個人の責任を重んじ、集団のバランスへ献身的でいられるという素晴らしい例が東京だと思います。この街で生み出されたアニミズム*1、優美、そして詩的な考慮。東京を尋ねるとは、まるで一流のアーティストに出会うようなものです。私はこれからも常にこの経験を人生に反映させるでしょうし、東京から学んだことを崇め続けるでしょう。
(*1)アニミズムとは、あらゆる事物や現象に固有の霊が宿るという世界観
ー「保持方法」について聞きたいと思います。どうして日本語をタイトルに使ったのですか?
最初は出来上がった作品が私バージョンの「春画」だと思ったので、日本語のタイトルをつけることにしました。春画は、センセーショナルなアートであると同時に美しいビジュアルと、それだけでなく教育的で知的好奇心を満たす側面があります。そんな側面に長年興味があって、日本のエロス芸術にはとても感化されてきました。だからこの作品と一緒に日本を旅行するのが自然だと思いました。
ところが東京に着いたら、日本の人との会話のなかから秩序を守ることへの責任感や自己責任というアイデアがどれだけ彼らのプレッシャーになっているのかも学びました。それで「保持方法」はどのようにして「力を抜くか」について議論することのシンボルともなりました。
日本人の子に見せると、説明書みたいなタイトルだと驚くから面白いんです。英語だと”How to Hold”と書き、それにはニュートラルな響きがあります。「保持方法」と名付けたあとに、それがどれだけ日本人にとってフォーマルな響きなのかを教わりました。フォーマルでシリアスな響きなのは嬉しかったです。だって人間はとっても感情的な存在にも関わらず、まるで感情がないかのように生きなければならないことへの矛盾を強調できていると思ったからです。
ー作品について、「本能で描いてるから作品は出来上がるまで自分でも予想できず、だからこそ作品への解釈は、それを初めてみる人と同じように自分もしている」と会ったときに言っていたのがとっても印象的でした。今回の「保持方法」についてバックリー自身の解釈を教えてもらえますか?
「保持方法」は、二人の人間が抱擁している絵のシリーズです。アナログな手書きのアニメーションのようにページをめくると動きがあるようにしました。その手を遅めて、ゆっくりページをめくると、ストーリーの展開を楽しみながら、一つひとつの動きのインパクトを読者は感じることができるでしょう。ストーリーは進みますが、そのペースに静観するようになる効果があります。そうして同時に「保持方法」は、どのようにして抱きしめるか、そして抱きしめられるのかを一歩一歩学ベる、操作マニュアルなのです。
私たちが生きる現代は、メディアがものすごいスピードで私たちを追いかけてきます。感情には価値がないとされていたり、もしくは感情を経験する暇もなかったりします。だから、つながりを象徴する瞑想的なメディアを作ることで、みんなにオープンに感情を表現したり、それを受け入れることの大切さを思い出して欲しかった。これは現代における課題だと思っていて、麻痺してしまった私たちが生き続けるために、人間らしさや心の知能指数を育むことが必須だと思っています。
ものごとが互いに作用し合っているという事実、そして「目に見えない形をなさないもの」への配慮は今の世代の人には忘れさられてしまっている気がしてなりません。けれど今こそ思い出すべきなのです。私たちの大部分は水からできていて、私たちを作り上げているもの自体が、とても儚く、丁寧に扱われるべきものだということを。
世界が変わるには、思いやりを与え、受け入れる力を人々のなかに回復させることから始まると信じています。とらえどころのないコンセプトですから、学校でも家でも教えられることはないでしょう。私たちの人生で議論されることがなく、けれども一人ひとりの行動にとても作用するこのコンセプトに対して操作マニュアルを作ることは、私たちは「愛について学ばなければならない」という提案でもあるかもしれません。繊細であること、理解すること、目に見ることはできないけれど私たちみんなが共有している力に対して今は混乱が起きていて、過渡期なのかもしれません。
ー少し話が変わりますが、どうして自分のことを「ビジュアル哲学者」と呼ぶのですか?今まで聞いたことない言葉だったのですが、何を意味しているのですか?
考え方によっては、「ビジュアル哲学者」はアーティストをほかの言い方にしただけとも言えます。アーティストとは、他者のなかに共鳴を呼び、人生や、人間としての経験に対して新しい考え方を呼び起こせるようなイメージを与えることのできる、そして鋭い観察ができる人のことです。7年以上アーティストと自覚を持って活動していますが、さまざまなモチーフを持ったほかのアーティストに出会ったことで、自分のアートを確立させる必要性を感じました。それは科学者が自分の発見を主張するのと同じようことです。私の作品は、知恵への愛と、ものごとをセオリー化すること、そして人生のなかで起きるできごとに対する反応を洗練させていくことへの熱意から生まれてきます。
私は常に自分の視野を伝え、広げていく必要があると感じていました。その度にある質問が浮かぶのです。「全人類で共有できる普遍的な真実とは何か?」。これは文字にしたり話すだけでは表しきれません。それを表すためにはモダンでインパクトのある、マスに届けられるような“乗り物”が必要だと感じました。文字は言葉の壁が邪魔してしまうし、私が作った音楽ではジャンルの既存のイメージなどが邪魔して成し遂げられない。でもビジュアルアートは、この時点では、どんな状況にいる人にもあらゆる壁を超えて共鳴を呼ぶ方法だと気づいたのです。なので、「ビジュアル哲学者」と自分を呼ぶことは、私が作るビジュアルアートが私のセオリーを共有したり、広げたりするのに効果的であるだけでなく、その時々に興味のあるコンセプトを能動的に形にできるという私自身への確認なのです。
ー過去にアートを使ってフィリピンの病院をリフォームするプロジェクトに関わっていたそうですが、アートは社会にどう貢献できると思いますか?アートならではの力とはなんでしょうか?
私は「美しいものの力」を心の底から信じています。私たちの日常は静かにそびえ立つ建築や街中に広がるメディアなどによって埋め尽くされています。その時代の価値観がそのまま街のビジュアルに現れているのです。とはいってもこのグローバル化された世界では、過多な生産のせいで、人と、ものや場所との関係が乏しくなっているとも感じています。美しさを気にせず生み出されたものは、そのものと関係を持つ人の、そのものへの興味のなさに現れています。
私が一番心配しているのは人に多大な影響を与える可能性のある学校や病院です。フィリピンのマニラでは現地のクリニックに絵を描くことを頼まれました。そこにはよどんだ空気が流れていて、そこで働く人や患者さんによくない影響を与えていたからです。そのクリニックでは誰もが診断を無料で受けられるにも関わらず、訪れる患者さんの数は減る一方でした。
その地域の医療の統括を担当していた人は、病院のよどんだ雰囲気に原因があると判断しました。彼女は医療の施しができるだけに止まらず、インスピレーションを与え、行動を喚起するようなスペースを作り上げたかったのです。彼女の思想こそ社会のなかのアートの役割を体現していると思います。
必要最低限の機能はあっても、生きていることを実感させる力のないものたち。そこにアートが必要になってくる。眠りに落ちてしまいそうなものを叩き起こし、あるべき姿を、文明社会が切り開いていくために。
静かにゆっくりと話すバックリーと会話すると、時間の流れまで穏やかになるような気持ちにさせられた。「美しいものの力」を認識し、それを社会をよくするために作り続ける彼女。「アートは実用的ではなく、ラグジュアリーである」という意見を耳にすることもあるが、彼女の話を聞いて改めて社会におけるアートの可能性や必需性を感じた。
※こちらはBe inspired!に掲載された記事です。2018年10月1日にBe inspired!はリニューアルし、NEUTになりました。