“平和ボケ”の日本人へ。社会がいう“正しい答え”ではなく、自分にあった答えを探すための冊子を作る若者

Text: Shiori Kirigaya

Photography: Mathias Adam unless otherwise stated.

2018.3.7

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日本社会は自由なのか、考えたことがあるだろうか。代々木公園にいた高校生二人に「生活していて不自由に思うことはない?」と、今回の取材対象である20代の若者たちが聞いてみると返事は「いや、特にない」というものだったという。

だが、その高校生たちにとって日本社会は本当に「自由」なのだろうか?日本のジェンダーギャップ指数のランキングは144カ国中111位(2016年)とかなり低く、平均して女性は男性の66%しか賃金がもらえていないというデータもある。また、日本社会は決して自分の抱えているメンタルヘルスの悩みや、セクシュアリティについてオープンに話しやすい環境ではないだろう。

そんなことを問題と感じ、B.G.U.(ビージーユー)という名の多面的に「自由」を考え直すフリーペーパーを使い、発信する若者たちがいる。Be inspired!は、編集長を務める大学生のYumeと、アパレルのショップスタッフと薬剤師の仕事をしておりB.G.U.の紙面によく登場するMakotoに「なぜ人々は自由に対して疑問を持たないのか」「なぜ人々は似たような人生しか選択しないのか」をテーマにインタビューを行った。

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Yume(左)とMakoto(右)

「自由」って、一体どんなこと?

「自由」とはどんなことをいうのだろうか?ほかからの束縛を受けず、思うままに振る舞える状態というのが、その言葉のさす意味の一つだ。さらに中世のヨーロッパでは「身分的な自由や特権がある状態」が「自由」だったという。(参照元:コトバンク

Yume:自由って何かって考えると、法的なことではなく、固定観念等そういう“縛り”なしに振舞えたり行動したりできることだと思って。それは、ほかの人の自由を奪わないということでもあって、たとえば「自由」だからってLGBTQの人を否定するのは自由ではない。

彼女はさらに、自由とは「自分の好きな選択肢を選べること」だと強調した。自由とは、「普通はこうだから」という考え方に縛られたり、それと自分自身を比べたりせずに生きられる状態かもしれない。日本では法的に同性婚はまだ認められていないが、最近までサウジアラビアに存在した「女性の自動車の運転を認めない法律」のように、何らかの行動が法によって制限されることは少ないのだが、自分の好きな選択肢を選んだときの風当たりの強さが社会文化的に残っている。

Yume:日本に選択肢はあるんだけど、邪道(“普通”の人が選ばない道)を選んだら、否定されるとか噂になるっていうのが不自由じゃない?日本では自分の好きなものを選ぶ「自由」はあるけど、それを選んだらどうなるかって考えると、そこが自由じゃない。

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では、「不自由を感じていない人」がどうしているのかというと、それは「当たり前」のなかで生きられているから、と話す二人。だが今はマジョリティの人だって、突然障害を負ったり、他国に行って外国人として過ごしたりするときには、そんな「当たり前」に浸かって“平和ボケ”をすることはできず、当たり前とは何か、程度の差はあれど「問う」ようになるのではないか。

Makoto:マジョリティの人たちが深く考えずに「普通はさ〜」って言うことには、彼らが不自由なく生きられているのが表れているんですよ。マイノリティに対して「普通はさ〜」って何気なく発することで、それだけでもう抑圧なんです。普通ってなんだろう、あ、私普通じゃないんだと、マイノリティの子たちは悩むと思うし。

教育にも生き方にも一つの「正しい答え」や「正しい選択」はないはず

さて、どこで「普通はこうだから」という縛りつけが始まるのだろうか。生まれたときは誰も固定観念なんて持ち合わせていないのだから、広い意味での「学び」が関係していると考えられる。社会がどんなものかを、子どもは生きていくなかで学んでいくからだ。

日本の学校教育を思い返すと、「自分の考え」よりも「決まった正しい答え」を導くこと、「みんなが同じになること」が重視されてきたような印象を受ける。たとえば国語の時間に文章を扱うとき、アメリカの学校*1と比較すると、日本の学校ではそれついて自分が何を考えたかを発表したりディスカッションしたりするよりも、筆者が何を考えていたか理解したり想像したりすることが求められる傾向があるようだ。また、二人が指摘したのが多くの中学校・高校で取り入れられている男女別の制服に表れているのは「ジェンダー表現を二つに縛る教育」だということ。

Yume:ジェンダー表現ってそこから設定されて縛られてしまって。中高生っていろんな経験をして自分のあり方を一番考える時期なのに、ただ女子男子ってわけられて「制服」という型のあるものに押し込められてしまって。あれが結構ね…そこから自己表現が結構殺されている気がしていやでした。

(*1)Yumeは中学3年生から日本の学校に通うまでアメリカで学校に通っていたため、彼女の通った学校でのそれぞれの経験を比較した

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そんな日本の教育に存在した目に見える「縛りつけ」に疑問を感じ、自分の意見を述べる練習の機会が少なかったと話す二人だが、大学では「自分で考えることの大切さ」を感じる経験をしたという。Yumeの場合は、グループごとに難度の高い文章を与えられプレゼンテーションやディスカッションを任せられる授業で、Makotoの場合は、「人の生と死」をテーマにしたビデオをみる授業など、受け身でいては何も生まれない実感や、現実を見せられることでいやでも自分はどう思うか考えさせられたのだ。

Yume:衝撃的なものを見るって自分の慣れていないものを見るってこと。それが重要だと思って。いろんなことに触れるという経験を若いときから作るべきだなって。日本の英語の教科書で外国人といえば白人ブロンドの人が多いけど、外国人ってそれだけじゃない。外国人=英語っていうのも違う。そういうふうに教育のなかで人間を一面的に表現したり、一部の人しか登場させないのは偏見につながるおそれがある。たとえばトランスジェンダーの人をもっと見せるとかもそうだし、普段そんなに見ないものや触れないものを、もっと授業で見せるのもすごく重要だと思います。普段触れないものだからこそ印象に残るのだろうし。

「自由な選択」をしようにも、社会の現実やその多面性を知ることなしには、選ぶことさえないのではないだろうか。多様な世界を見せることに重点をおかず、自分で考えることを学べない教育では、多面的な考え方が身につけられず、その結果「型にはまった人生」しか歩めなくなってしまうおそれがある。

Yume:教育でも生き方とか自分のあり方でも、本当は全員にとって一つの正しい答えなんてないはずですよね。自由なはずだけど日本って“正しい答え”がある。こういう見た目でこういう性的対象がいい、という正しい型にハマろうとして自分や個性を殺すことが多々ある。そもそも教育から「絶対正しい答え」があって、だから国語の問題でも解答は完全にこれ、これ以外はありえないっていうのが多いし、みんなの生き方もそうだなって思えて。生きていきながら「自分にあった正しい生き方」を見つけるべきなのに、みんな社会がいう“正しい答え”をただ目指している感じがする。だからそこから外れていると、なんか間違った生き方に見えちゃうんですよ。

二人だって、初めから自分の意見が言えたわけでもない

B.G.U.では、「もし自分や他人を苦しめている問題に興味を持ったら考えてみよう」という姿勢で活動している二人だが、意外なことに、自分の意見を人に伝えたり理解しようと質問したりするようになるまで時間がかかったという。授業で生徒が発言することが「当たり前」だったアメリカの学校に通った経験のあるYumeは、日本の学校に通うようになって目立たないことをよしとするクラスメイトに合わせるようになった経験がある。

Yume:大学の授業でも一番前に座っていたし「はい!」って手を挙げて発言する人なんですけど、やっぱり1,2年生のころはみんなの視線を気にして過ごしてて。でもそれじゃあ全然勉強にもならないし、ちゃんと意見を言わないと何も吸収できないからと思って、恥ずかしいのを捨てて発言するようになりました。振り返ってみると、そんなことをするのが一人だけっていうので結構葛藤したんだなって思う。誰も何も言わないんですよ、先生が質問しても。そういう誰も言わないから自分も言わないみたいな考えから、誰も言わないからこそ私は言おうっていうマインドセットに変わって。だけどそうなったのも3年生になってからかな。

自分が慣れていたものから脱け出そうとするとき、それは簡単にいくものではない。だが二人は、現在では自分の好きな道を自分で選択し、より人生を自由に生きる方法を見つけられたようだ。

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話を聞いていると、そんな二人の姿は多くの同世代にとって「変わっている」あるいは「羨ましい」存在であるように思えた。しかし本人たちにとってはただ自分で選んで責任をとって生きているのにすぎない。「決まった型」にはまって生きるのは、ある意味で簡単だけれど、そんな安定志向だけが人生の選択肢なわけではない。そうさせているのは、「決まった型」以外を選んだ人が周囲におらず想像しにくいという点が浮かび上がる。

Makoto:久々に同じ大学出身の薬剤師の友だちとかと話すと、「まこちゃん、辞めたの薬剤師?辞めたの会社?本当に?」って言われます。それで「会社辞めたけど、パートタイマーでやっているよ。でもそれだけじゃなくてアパレルやりたかったから会社をやめてパートとも掛け持ちしてどっちもやっている」と話すと、「いや〜いいなまこっちゃん、自由な生き方ができて」みたいな。「いや、自分の人生なんだから」って言うんですけど、みんなシーンとしちゃうんですよ。

Yume:私も全然就活する気とかないんだけど、それは普通から離れている選択だから、「Yumeはいいよね、そうやって気にしないで生きていけるから」って言われたりするけど、気にしないで生きているんじゃなくて、自分は自分だし他の人は他の人だし。もしそれが否定なら、別に人のことを否定しなくてもいいと思う。日本ってそういうところが多いんだけど、「お互いを否定しない自由」があるはずだと思っていて。就活してオフィスに毎日行くのが夢だっていいし、それだって否定されるべきではない。

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多様なバックグラウンドがあるからこそ、発信できるもの

二人が運営に携わる、フリーペーパーのB.G.U.は多様なバックグラウンドを持った人たちが不自由に感じるところをピンポイントにわかりやすく、マイノリティの人にもマジョリティの人にも、楽しみながら学べるような媒体で、固定概念を少しでも打ち壊していくという思いで制作されている。制作や配布を行うのは、それぞれ育ってきた環境や人種、ジェンダー、セクシュアリティもさまざまな若者たち。

Yume:発信したいと思ったのは、ただ生きているだけとか、ただ自分たちの身内で話しているだけとかだと人に伝わらないという思いがあって。日本にも似たようなことを話している人はたくさんいると思うんですけど、それを形にしているのはすごく少ないと思っていて、まだ未熟なフリーペーパーなんですけど何か変えていけないかなって始めたんです。

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これだけウェブ媒体が主流な時代に変わってきているのに、なぜあえてアナログを選んだのか。それはメンバーが手渡しで配り、そこでとれるコミュニケーションを重視しているからだ。暖かい時期には代々木公園でピクニックなんかもして、通りがかった人たちに直接渡して読んでもらいレスポンスをもらう。インスタグラムをはじめとするSNSも使うが、ハッシュタグをいくら工夫してつけても、似た関心を持つ人たちにしか届かないため、これからもメインとなるのは手渡しだという。

また、彼らの多様性にも限界があり、もし彼らにはないここにはない何かを考えている人がいるならちょっと一緒に何かしようよ、という「寛容な受け入れ体制」で待っているという。当たり障りのない会話に時間を使ってしまいがちな世の中で、より深い問題について話せる場が日本にはあまり設けられていないと感じている人にも同誌を勧めたい。

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まず自分で思考することが、「自由」への追求につながる

「自由」というものは、かなり漠然としたものに思えてしまわないだろうか。それははっきりと目で見ることはできず、ある人にとっては特に気にすることのないもので、またある人はそれを得るために常に戦い続けているというものかもしれない。だが、確かなのは「自由」について自分で思考してはじめて、本当の意味で「自由」を追求できることではないだろうか。自分の自由に生きるには、もちろん自身の経済的な側面が関係するが、自分の考えと責任で選択しようという勇気が持てたとき、きっと生き方の幅が広がる。

B.G.U.

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※こちらはBe inspired!に掲載された記事です。2018年10月1日にBe inspired!はリニューアルし、NEUTになりました。

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