「生涯を通じて、決意した自分に絶望的に賭けるのだ。変節してはならない。精神は以後、不変であり、年をとらない。ひたすら、透明に、みがかれるだけだ」。これは日本を代表する芸術家岡本太郎が生前残した言葉だが、今の時代に自分を曲げず、孤独とともにただひたすらに自身の運命に挑みつづけているひとは、一体どのくらいいるだろう?さまざまな事情が複雑に絡み合い、我々を運命の存在から遠ざけるかのように物質ばかりが豊かになってしまった現代では、出逢えることは稀だろう。
しかし、彼に会って確信した。
磯村暖(いそむら だん)さん、26歳。彼はまさに「そのひと」だった。
アーティストの彼は、自身の作品を通してLGBTQや移民の権利問題を訴え続けてきた。しかし、彼の作品は決して我々にそれらを押し付けてはこない。その多角的な視点は、東京と埼玉と佐賀とオーストラリアという土地で育ったことで育まれたのだろうか?それとも何かきっかけが?
日本という国で、アートによって時代を拓こうとしている彼に、今回は言葉という形で自身の内を表現してもらった。
葛藤、迷い、常に側にあった創作活動
「実は僕が5歳の時に、両親が別居し始めたことによって、父子家庭になってしまったんです」。彼は、まるで私たちに配慮するかの様な口ぶりで、自身の過去について切り出した。それは、確かに暗い現実を乗り越えた人の話し方だった。
東大出身で職業が医者だという彼の父。多忙な父はとても子育てができる状態ではなかったにも関わらず、その社会的な立場の強さを理由に、裁判所は親権を父に渡した。実際に父に「ネグレクトされていた」彼が、裁判所の判断に納得することはもちろんなかった。
そんな状況に耐えられなくなった13歳の時、離れて暮らす母の援助により、渡豪を決意した。それは、彼にとって「避難だった」。オーストラリアで約1年半過ごしたのち、中学3年生の時に帰国した彼は、10年ぶりに母と2人で暮らし始めた。
今でこそ「僕のことを心から応援してくれている」と嬉々と話す彼だが、当時母からは、「東大を出て医者にならなければ不幸になる」とせがまれた。違和感を覚えつつも、地元で一番偏差値の高い高校に入学した。そこまではなんとか、医者になるビジョンが見えていた。
高校2年生のとき、ひょんなことからファッション関係のイベントに誘われた。それは都内で行われている、高校生による高校生のためのファッションショー「moc.(モック)」だ。導かれるように辿り着いたそこは、自分の居場所のように感じられた。のちに人生の大きな起点となることは大抵、そしらぬふりして日常に溶けこんでくるものだ。
ここにいる人たちは東大には入学しないかもしれないけれど、好きなことをしてきっと幸せになると思った。
「医者になることが、僕にとっての本当の幸せだろうか?」今までの自分の人生への違和感が徐々に確信へと変わっていった。彼はそれを「洗脳が解けた」と表現する。
「洗脳が解ける」ことは同時に、己の存在に気が付くことを意味する。すると彼は、一気に本当の自分の気持ちに嘘がつけなくなった。
それからは、現実とのギャップにひどく苦しんだ。今まで信じていたものが全てなくなり、身一つになってしまったかのような心もとなさの中、幾度となく繰り返される葛藤と苦しみ。
生活の安定性、母からの期待ー痛いほど分かっていた。けれど芸術へのほとばしる想いは、もう止められなかった。ノイズのように行き交う気持ちに終止符を打ち、彼は東京藝術大学の受験を決意した。
初期の作品は、葛藤を表すものだった。
入学当初は「まだ弱々しくて、不安定だった」。そんな彼は、自身の葛藤や精神的な部分を作品に昇華した。そうすることで自分自身を癒したのだろう。
すると、自然と気持ちが外へ向いていった。
卒業直後にNYを訪れて
藝大卒業直後に、友人と旅行でNYを訪れた彼。帰国の便を待つ空港のテレビを観ていると、流れてきたひとつのニュースに目を奪われたという。それはアメリカで起こった銃乱射事件のワーストランキングに入るであろう「オーランド銃乱射事件」*1だった。
間髪入れずに翌週には、イギリスがEUから離脱することが決まった。
これらは「『世界的な統合が進んでいったが故の分断』が、良くない方向で始まってしまっていることの表れだ」と、危機感を覚えた。何もしない方がおかしいと思いだした彼は「自分ができること」として、2016年9月、阿佐ヶ谷にある現代美術ギャラリーTAV GALLERYで行われた個展『地獄の星』で、初めて公の場で、社会問題を提起する作品を展示した。それが、現在も彼が制作に取り組み続けている作品『地獄の亡者像』だ。
(*1)アメリカのフロリダ州オーランドで2016年6月12日にゲイ・ナイトクラブ「Pulse(パルス)」で起きた銃乱射事件。50人が死亡し、53人が負傷した。
Photography: 松尾宇人
世の中の考え方を覆す可能性を秘めた「地獄」
「悪いことをしたら地獄に堕ちる」。昔から語られてきた、その「地獄思考」に、彼は疑問を投げかける。
「『悪い事をしたら苦しんで当然』という考え方は視点を変えれば、人を安易にカテゴライズしたり、レッテル貼りをして、差別することに繋がりかねない」。確かに社会で決められたルールは、モラルを保つ側面がある一方で、ときに私たちから「自らの頭で考える力」を奪ってしまう。
人種や、宗教を理由にレッテル貼りされた人々は、迫害されたり差別をされたりして、苦しみの中で生きている。そんな事がまかり通っているこの世こそ、地獄だと思っていた。
そんな「地獄」に関する興味深い場所が、同じアジアの国にある。それはタイの地獄寺だ。
流血した像や、目の玉がくりでた像などが何体も並ぶそこは、「生きているうちに罪を犯したら、地獄でこういう目に合う」という、まさに「地獄思考」を体現したスポットで、タイ全土数10カ所以上の寺のなかで見ることができる。
「この世こそ地獄のようであるが、果たして彼らにその苦しみを受ける必然性はあるのだろうか?」そう思っていた彼だが、そこを訪れて見た景色は思いも寄らず、そんな彼の考えを可視化しているような鮮烈な印象を放っていた。
罪を犯したが故に地獄で苦しんでいるはずの像たちが、「僕らと同じ地表に立っている」。しかも、南国の日に照らされて、「穏かにさえみえた」。その瞬間、頭の中がごちゃごちゃになった。あの世とこの世が同時に存在する場所に立った彼は、ハッとした。
「この世=地獄」ではない。僕がいま生きている場所は、すごく曖昧な場所なんだ。
「それって超リアルじゃん」。一貫した考えを覆された彼は、その時肌で感じたことを作品を通して表すことで、受け手になんらかの「気付き」を与えられると思った。
そういった「気付き」は受け手の「思い込み」、つまりは既成概念を崩し、新たな考えを芽生えさせる可能性をも秘めている。
確かに、美術界で地獄が平面から、より分かりやすい立体として表されるようになった1970年代は、タイで民主化運動が頻繁に起こった時期、つまり国民の考え方が大きく変わった時期と重なる。
“国民の考え方の変化”が起きたのと同時期に、“あの世がかたちをもって表されるようになったこと”には「なにか関係があるはず」。
その時の感情と衝動が合わさってできた『地獄の亡者像』は、観た者の心にアンビバレントな感情を生み、私たちの既成概念を優しく崩す、確かな力を持っている。「同性愛の罪」や「国籍を持たない罪」などの罪状が表面に書かれたそれらは、当事者の悲痛な叫びを表現するとともに、まさに彼の「洗脳が解けた」ときの感覚を私たちにも呼び覚ます。
台湾人の意識を大きく変えた「カップルの死」
2017年、アジアの国として初めて同性婚の合法化が可決された台湾。
合法化にあたって、LGBTQの権利活動家の祁家威(チー・ジアウェイ)氏*2が同性婚を実現するための活動を長く行ってきたことも可決に大きく貢献したが、ある事件が台湾国民の意識を大きく変えたことも、その一因だといわれている。
それは、35年もの間連れ添ってきたフランス人と台湾人の同性カップル*3の事件だった。台湾人男性が病気によってこの世を去ってしまうが、フランス人男性は医療に関する意思決定や、死後の遺産相続にも関与できなかった。理由は、同性愛者の結婚が、法的に認められていなかったから。
その約1年後、フランス人男性はビルから飛び降りて死亡した。
これを知った台湾の人々は、同性婚法の可決を強く求めるようになり、事件の翌年、実際に同性婚の合法化が可決された。
僕が台湾で衝撃をうけたのは、同性愛の権利を訴えるパレードに、非当事者が多く参加していることでした。何故かと尋ねたら「同性愛者の問題ではなくて、人権の問題だから。つまりみんなの問題でしょ?」って。
これを受けた磯村さんは、昨年末に行った個展「LOVE NOW」で、彼らのための作品を展示した。それは、台湾の婚姻届と、同カップルの家の紙紮(zhĬzā)だ。紙紮とは台湾の葬儀用品のひとつで、死者があの世で困らないようにと、紙で作った家やお金のこと。燃やすことによって、それらが死者に届くとされている。
(*2)台湾で約30年にわたってLGBTQやエイズ患者の権利を擁護してきたLGBTQ活動家。2017年には、台湾で市民社会や民主主義の発展に貢献した個人・団体に贈られる「総統文化賞」を受賞している。
(*3)ジャック・ピクゥ(フランス人)とズン・ジンチャオ(台湾人)の同性カップル。
Photography: 松尾宇人
「あの世で婚姻届を提出して結ばれて、2人でこの家に住んでね」という想いと、「これ以上この紙紮が必要な魂が増えない世界になって欲しい」という、日本の現状への悔しさが交錯した作品です。
物理的に遠い人々にも心を寄せる彼の性格は、プライベートにも表れていた。それは、人種も職業も何もかも関係なしに招いた人々で行われる「ホームパーティ」だ。
自宅で行った「ホームパーティ」
どんな経緯で行ったのか尋ねてみると、 「たくさんの人を呼びたいと思って、僕の周りの人を呼んだら、たまたま国籍とか職業とか、ばらばらになっちゃったんです。ネパールの移民の人が作ってくれた料理をギャルが『美味しいー!』って食べたりとか、丸の内で働く商社マンが高級なお酒を持ってきてくれたりとか(笑)」。そうざっくばらんに話す彼に、なんだか拍子抜けしてしまった。何故かといえば、もっと計算された理由がそこにはあると思っていたから。
でも「そこで起きている光景はすごく良かった」。行われたのは家というプライベート空間ではあるが、その中では異なる個やコミュニティが混ざり合い、お互い普段の意識下では対象化しかできないような距離感であっても、ホームパーティー内では自然に相手の問題が自分の問題のように思えてくる。
小難しい話は置いておいて、「あれ?これで良かったんじゃないの?」と純粋に思えた。そんな自然体のモチベーションと周到なリサーチによってホームパーティーはプロジェクトと映像として作品化もされた。
ホームパーティーの作品は台湾の美術館でも上映され、フランスの美術館ポンピドゥー・センター・メスのチーフキュレーターからも賞賛を得た。彼の独自の色彩感覚で表されることで、観たものに、異文化が混ざり合い、理解し合うことを軽やかに示唆しているように思う。ポップな仮面を被ったそれらからは、時代を切り拓こうとしている彼の確かな挑戦心が伺える。
面白い人たちはたくさんいるのに、自分で作った壁とかで、面白い人と接する機会を逃してしまうのは勿体ない。
「勿体ない」という感情が生まれるのは、彼らのことを“移民”というフィルターを通してではなく、一人の「人間」として見ているからだろう。
僕本当は、ただひとつ「人類みな平等だよね」って感覚さえ持っていれば、大丈夫なんじゃないかって思っていて、みんなそういう能力が初めから備わっていると信じているんです。
そういった感覚を「いかに社会の仕組みに汚されないか」が大事だと話す彼だが、決して「啓蒙がしたいわけではない」。そんな彼の作品たちを観ていると、「思い込み」が剥がれ、底に眠っていた愛の感覚が蘇り、問題と言われているものは問題じゃなくなる、そんな気がした。
磯村暖(Dan Isomura)
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美術家。トランスナショナルな時代以降の美術を実践すべく国内外での歴史や宗教、フォークアートに関するリサーチに基づいたインスタレーションや絵画などの多岐に渡った制作活動をしている。近年の活動に台湾の關渡美術やタイのワットパイローンウア寺院での滞在制作、キース・ヘリング生誕60周年記念イベントでのコラボレーション、香取慎吾の呼びかけによる「NAKAMA de ART」に新進気鋭のアーティストとして参加などがある。