近年、「改名」をする人たちの存在をニュースで見ることがある。“キラキラネーム”を払拭したいというものから、自認するジェンダーと合わなかったことが理由であるもの、新たな人生を歩む決意を込めたものなど、その背景は多様だ。そして、まるまる新たな名前にする人もいれば、読みは同じまま字を変えるという選択をする人もいる。
また芸能人など、活動する際に芸名を使う人もいれば、本名のままの人もいる。芸名の例をとっても、「名前」をつけることで異なる特徴やアイデンティティを持つ自分の“像”を作るということもあるだろう。今回インタビューしたアーティストは、今でこそ「白濱イズミ」として知られてきているが、2つ、いや3つの名前を使い分けているという。それぞれの“自分”は、現在の彼女にとってどんなものなのだろうか。今回は、アーティストの白濱イズミとして取材を受けてくれた。
自分の“名前”との葛藤
プライベートでは「白濱愛(しらはま いずみ)」、創作活動をするときは「白濱イズミ」、そしてファッションモデルやタレントとして活動するときは「loveli(ラブリ)」。そんな3つの名前のなかで最も“内側にいる自分”としての彼女は、プライベートでのみ使用する自身の本名で、だからこそ本人が守り続けたいと強く願う「愛(いずみ)」だ。人見知りで、殻にこもりたいタイプなのが、他人が知らない愛(いずみ)としてのプライベートの姿だという。
世間的に最も知られているのは、ラブリとしてだろう。もともとは同名でテレビ番組に登場することもあったが、そこで切り取られて発信された“ラブリ像”が与えた印象は強く、近年はほぼ出演していないのにもかかわらず、テレビでのイメージで語られることが少なくないため、彼女は今でも困惑を隠せない。バラエティ番組の可愛くてポップなだけのイメージから、モデルとして載れなかったファッション媒体があったことを振り返っていた。
残念ながらラブリとして詩集を出したときスタイルブック扱いになっちゃって、言葉も全然見てもらえないし、言葉を書いてる人たちからすごく嫌な感じに思われたのもあって、ちゃんと分けたいとずっと考えてました。
では、白濱イズミはどうなのか。アーティストとしての純粋な表現活動をするときに使用する名義だ。ラブリよりも内側にある“自分”だが、「内側の外側」だというのがふさわしい説明だという。創作が芸能活動のプロモーションのためではないのだと、はっきりと提示するために使い始めた。近頃は、社会や政治の問題について自身のSNSで発信したり、同様のトピックでのトークセッションに出演したりすることでも知られるようになっている。
自身のクリスチャンネームであり、親しみのあったラブリという名前の“自分”が、編集されて作られた“テレビ受け”のする人物像として一人歩きするようになり、同名での活動を停止しようと考えたことさえあったが、応援してくれている人たちを戸惑わせないようにとタイミングを見計らい、2年前に本名とアーティストとしての名義を公表し、呼称を区別することにした。それぞれの違いが、明確になってきたのは最近のことだ。
正々堂々分けましょうっていう気持ちに自分がなって。自分の内面の活動ってお金儲けのためじゃないし、売れたいっていう気持ちのためでもない。自分の場所を守るっていう意味で決断しました。
それぞれの“名前”があることで、力強い
仕事の依頼においても、自然とそれがイズミの名を使ってなのか、それともラブリでなのか区別されるようになってきたと話す彼女。自らの今後について考えるうえでも、それぞれの名前での目標と達成のための筋道を分けている。
「白濱イズミの方でお願いします」とか、「ラブリの方でお願いします」って言われることが多くなって、違いが分かりやすくなってきたのかな。
「どちらもあるのは強い」。彼女は名前の使い分けについて、そう考えている。過去にはラブリを使うことが嫌なときもあったと話す彼女も、現在ではそれぞれにメリットを感じているのだ。たとえば選挙への参加を呼びかけるなど社会参加の大切さを伝えたいというときに、ラブリとしての声はイズミとしての声よりも大きい。そんな自分を“利用”することで、相乗効果が得られるのだ。
どっちもあって、それぞれをコントロールできるというのが強いなって。ラブリの方をなくすことも考えたんですけど、でも入り口は多い方がいいかなって思って。例えばラブリしか知らなかった人がなんかのきっかけで、白濱イズミを知ってくれたら、またそこから広がっていくし。
これまでに、投票や動物愛護などのトピックについて、Twitterで71万人以上のフォロワーを持つラブリとして発言することで、より広い層に届けてきた彼女。「ラブリが言うなら」と小さな関心を抱いてもらえるような効果も、間違いなくあっただろう。しかし他方で、そういった投稿をするようになってから彼女のTwitterフォロワーが1000人ほど減少した。このように芸能人による社会的な発言が好まれない風潮が存在するため、あらゆる層を取り込むまでには、まだ多くの時間がかかる。
言葉を使って、意味をつけること
高校生のときより「言葉」が好きだった彼女が、表現活動において選ぶ媒体はやはり言葉だ。「発信している言葉が好きです」と書かれたファンレターが複数届いたことがきっかけで、自身の発した言葉が自分のもとを離れて誰かの言葉となりうることへの喜びや責任を感じたという。それと同時に、言葉が彼女から世界に向けた表現手段だと意識するようになった。そんなイズミ個人にとって、言葉は自分の中身を整理するために用い、長く付き合ってきたもの。
言葉を書くようになったのは、頭のなかにある感情とか心とかっていうものを出すことで自分の確認作業や整理になるから。10代のときから、それを図面化することも多くて、自分が何を思っているかは、言葉にして捉えてきました。
ここまで書いてきたように、イズミは名前という言葉で、それぞれの“自分”に意味づけをし、区別してきた。だが、何も名前だけではない。自身が抱いた感情にも名前をつけ、展示を行ったこともある。2019年7月に東京で、8月には熊本で開催した個展「デジタルと私との関係、私はどうやら数字らしい展」がそうだ。SNS上での自分がフォロワー数やいいね数のような「数字」で判断されてしまうことへのストレスを表現し、話題となった。
ネガティブなものを、ただのネガティブのものとして残さないっていうのはすごく大事だと思っていて。それを自分なりの形に変えて名前を残すことは、起きたことに対する敬意でもあるし、それで自分もリアリティが感じられるような気がする。だから私は、物事に名前をつけがちかもしれない。
また同年10月には、「名前のないコト」と題した、写真家の東海林広太(しょうじ こうた)との合同展示を開催。そこで表現したかったのは、「写真で具現化できないものは言葉で作れ、言葉で説明できないものは写真で見せられること、そして見る人や読む人の記憶や感情によって、展示されているものの捉え方が変わる(=異なる名前がつく)」という考えだ。名前がついていないものと定義した時点で意味が生まれてしまうものの、彼女たちはなるべく撮影者と関係のない写真を撮ったり、書き手の感情が入っていない言葉を書いたりすることを意識し、受け取り方の多様さを伝えた。
個人として、自分の世界を守る
彼女が「社会」という言葉で語るのは、ラブリとして運営する会員制ウェブマガジンでファンクラブの「KILIG(キリグ)」。それを通じ、彼女は自身のルーツがあるフィリピンへの留学ツアーを開催するなど会員との交流も多く行っているが、そこでのファンとの距離の近さが、芸能活動を経験した人のなかでは珍しい。ファンというよりも個人として接しているような意識で、各々の名前を覚えていることも多く、自身が開催するイベントのスタッフをファンが務めることもある。そんな自身のファンクラブが、「社会」のようになってきたと彼女が話すのは、彼女のファンだという共通項によって、彼女の知らないところで人間関係が構築されているから。
彼女によると、ファンクラブで“顔が見える人間関係”が構築されているからか、イズミやラブリを長く好きでいてくれる会員が大半を占めるようだ。インタビュー中、イズミとラブリの両方でいることの強みを話してくれた彼女だが、互いの成長を見守っていけるようなファンとの人間関係が好きだという。だからそんな自分の世界を守りたいと、イズミは思うのだ。
フィリピンに行ったときもそうなんですけど、別にこう頑張ってラブリ作ってるわけではないんですよ。本当に人と人として触れ合って、そのなかで向こうが私をちゃんと尊重してくれてるっていう関係性ができてるんです。
これがイズミとラブリがいることでの力強さの背景にある支柱なのかもしれない。だが、そこで自分を絶対的なものだと崇めてもらいたいという考えは一切ない。彼らにはむしろ個人として、自分自身の考えを持って生きてほしいと語るイズミ。それだけファンに対する責任を感じるような「社会」は、彼女にとって大きな存在だ。
「マーケター/ライター/イラストレーター」のような複数の職業の肩書きを並列した“スラッシャー”の姿が目立ってきたのは数年前のことだが、いくつかの名前をスラッシュして(使いわけて)、自分の好きな“自分”や居場所を守り、生きていくというのが彼女の人生のスタンスだといえよう。