男らしさや女らしさ、理想の家族像や恋人像。世の中には多くの「常識」が存在している。それは私たちが生まれたときから親や先生の話、学校の教科書、街頭の広告やテレビなど、さまざまな媒体を通して刷り込まれ、一見違和感のない形で私たちの生活に入り込んでいる。それは私たちが他者と一緒に生活をするうえで便利な枠組みを作ってくれる一方で、その枠組みからとりこぼされた人々を抑圧・排除することに繋がる危険性もある。だから社会の常識は、今を生きる多様な人々の視点から、常に見直されて、変化させていく必要がある。でも、社会に当たり前に存在している常識を問い直すのは簡単ではない。一体どこから手を付けたら良いのだろうか。
そんな一筋縄ではいかない課題に対して、思いもよらない切り口から取り組んでいる研究者がいる。今回、話を聞いた関根麻里恵(せきね まりえ)だ。彼女は大学院の博士課程で研究活動をしながら、雑誌などにコラムを寄稿している。そこまでは一般的な研究者なのだが、特筆すべきは彼女の研究の対象にある。
関根が研究している題材、それは「ラブドール」なのだ。
「ロボットやアンドロイドって、なんで女性の形をしてるものが多いんだろう」
関根が研究の対象として一見風変わりな「ラブドール」という題材にたどり着くまでには、運命的にも思えるいくつかの巡り合わせがあった。
関根の専門領域は、表象文化論だ。
「表象」(representation)とは、簡単にいえば人々が社会のなかで思い描く「象徴」や「イメージ」のことを指す。表象文化論は、社会に「表象」として現れた文化事象を分析して考察する学問である。具体的な分析の対象は多岐に渡るが、関根の場合は特にそのなかでもジェンダーやセクシュアリティに関わる、映画・小説・雑誌・ファッションなどを主な題材としている。
そんな彼女の関心の出発点は「女性の身体がどのように表象されてきたか」だった。
これまで男性中心の社会が一方的に規定してきた「女らしさ」を見直そうとする動きが盛んな昨今だが、関根がこのテーマに関心を持ったきっかけは、彼女のある個人的な体験にさかのぼる。
私が大学1年生のときに母を乳がんで亡くしているんです。母が亡くなったときの、さっきまで生きていた人が心臓が止まった瞬間に「1体」になってしまった、その何とも言えない感覚や、最後に母に触れたときのもう人の血が通っている頃とは違った感触がずっと鮮明に残っていて。そこからすごく身体そのものや、身体の扱われ方に興味を抱くようになりました。
生前、「子育てがひと段落したら、大学院に行きたいな」と話していた母の死をきっかけに関根は、研究者としての長い旅路を歩む決意をする。
社会学を専攻していた学部生時代は「脚のセクシュアリティ」というユニークなテーマで卒業論文を書いた。当時ネット上で「ニーハイとレギンスどっちがいいか」という論争が盛り上がっていたことに着想を得て、歴史や文化のなかで「脚」がどういうふうに扱われてきたのかを男女180人程のアンケートを元に考察した。そこで関根が注目したのが、身体に対する捉え方についての男女の異なる傾向。そのなかでも特に興味深かったのが女性と身体の関係だった。
アンケートでは男女共に「ニーハイ」が圧倒的に人気だったが、女性のなかで「自分が履くのはイヤだけど、スタイルがいい人が履いてるのを見るのは好き」という意見があった。女性に関しては自分が履く以外にそれを「眼差す」という視点があることに面白みを感じたと関根はふりかえる。
その後、進学した大学院の修士課程では「フリークス」と呼ばれる畸形の人々を題材として選んだ。19世紀から20世紀に見世物小屋から映画へと舞台が移るなかで、「フリークス」がどのように表象されてきたかをたどっていくと、関根はそこに「女性身体の表象」に通じる構図を見出した。
一方的に「眼差すこと」を通して、そこに主従関係が生まれる。「フリークス」の人たちは、女性と同じような眼差しを向けられていたのではないかと考えました。
関根は「フリークス」の研究から、一方的に「眼差される」ことによって社会のなかで“正常”や“異常”などの属性や役割が規定されてるのではないかと考えた。
「女性の身体の表象」について考えるためのピースは少しづつ集まっていった。しかし博士課程進学後は、しばらく研究テーマが定まらない迷走期が続く。
そんなある日、関根はふと疑問を感じた。
小さい頃からSFが好きで、父の影響もあって、ロボットとかアンドロイドが出てくる映画にたくさん触れていたのですが、見ていくなかで女性的な形をしているものや、女性的な形をしていないけど女性的の役割を担うものが多いってことに気がつきました。これは一体なんだろうと思ったんです。
ラブドールとの運命的な出会い
「ロボットやアンドロイドはなんで女性の形をしてるんだろう」
手がかりを探すために古今東西さまざまな媒体を漁っていく過程で、関根はある1人のアーティストの作品と運命的な出会いを果たす。2016年1月に開催された東京藝術大学の卒業修了作品展に、アーティストの菅実花(かん みか)が発表した作品「ラブドールは胎児の夢を見るか?」だ。もし人工知能を持ったラブドールが妊娠したら「マタニティー・ヌードを撮りたい」と言うかもしれない、そんな発想から生まれた妊婦の姿のラブドールのポートレートは、大きな反響を呼んでSNSやメディアでも話題となった。衝撃的な作品の背景には、人工知能や人工受精等、今後の技術の進歩にともなって人類が直面するであろう未来の課題についての問いが込められている。「ありえるかもしれない未来」に対して、賛成、反対の表明ではなく、純粋に問題提起として作品を作る姿勢に関根は強く共感した。
同世代の女性のアーティストが真正面からこういうものを扱うってことに衝撃を受けました。それまで、ラブドールについては、特に強い関心があったわけじゃないんですけど、この作品を見て吹っ切れたというか。「やっていいんだ」って思ったんです。「ラブドール扱っても、OKかもしれない。今なら」みたいな。
当時、ラブドールの老舗メーカーオリエント工業が40周年記念の展示会を開催し、盛況な様子が全国紙で取り上げられ話題になるなど、ラブドールが表社会で語られ始めた頃だった。「今ならいける」という予感の一方で、「ラブドール」という性的なものを研究の対象とすることへのためらいもあった。「女性がセクシャルなものを扱うのはリスキーだ」、先輩の研究者からは忠告を受けた。踏ん切りを付けるまでには時間がかかったが、関根には一つの信念があった。
今は語りづらいものだとしてもとりあえず私が耕しておけば、後からこういうのに興味を持った人が語りやすくなるだろうと思ってやってみることにしました。
こうして、彼女がライフワークと呼ぶラブドールを題材とした研究活動が始まった。
人間とラブドールの知られざる歴史
持参した参考文献をめくりながら、関根はラブドールの歴史について教えてくれた。
日本におけるラブドールの歴史は江戸時代までさかのぼる。当時を記録した書物には、参勤交代をする武士が、妻や遊女をかたどって旅のお供にした「吾妻型人形」が記されている。存在が一般的に知られることになったのは戦後、南極越冬隊が隊員の性処理のために通称「ベンテンさん」と呼ばれる人形を極地に持って行ったことがメディアで報じられたことがきっかけだった。その後、漫画や映画等にも登場するようになって徐々に世の中に広がっていった。1977年には、日本で業界最大手となるオリエント工業が創業する。
かつて「ダッチワイフ」と呼ばれていた頃は、パーティージョークグッズとして流通していて、造形も性処理の機能に特化した粗末なものが多かった。そんななかでオリエンタル工業が、本物の人間と見間違うような精巧な人形を作るようになった背景には意外な顧客の存在があった。
オリエント工業には、今ではショールーム、かつては「相談室」と呼ばれていた場所がある。当時、そこを訪れるのは障害のある人や、妻に先立たれてしまった人、単身赴任の人など、性にまつわる悩みを抱えている人々だった。カウンセリングを通して話を聞くなかで、そんな人々の悩みを救うことができるものを生み出したいという思いから、本物の人間のような人形作りが始まった。
「少しでも人肌の感触に近づけたい」という職人たちの情熱は新しい素材を模索しながら、どんどん人間にそっくりな人形が作られていった。素材が変わり、名称も80年代には各メーカーが「ダッチワイフ」に代わる名称を模索し始め、現在では「ラブドール」が一般的な総称となった。こうした変化に伴い「ラブドール」の役割も変わってきた。
関根は、この素材・造形の変化をはじめ、ユーザーの変化、名称の変化等を背景に、ラブドールとユーザーの関係が性処理のみを目的とした「道具的な関係」から、精神的な安らぎや心のよりどころを求める「関係性自体を目的化した関係」へと変化してきたと考察している。
ラブドールは疑似性行為のために生まれた人形だが、今ではラブドールとそれを所有する「ドーラー」の関係は多様化しているのだ。ドーラーのなかにはラブドールを対話の相手とする人や被写体とする人がいて、一体だけを所有する人もいれば、何体も所有する人もいる。女性がお人形遊びの延長の感覚で購入することもあるそうだ。
ラブドールと一緒に暮らすドーラーの様子は、メディアに取り上げられることもあるが、一面を切り取られて好奇の目に晒されることも多い。関根のラブドールを題材とした研究の目的の一つには、こうしたドーラーに対しての偏見を少しでも緩和したいという思いがあるという。
ドーラーさんってみんなすごく優しいんですよ。ラブドールは非常に繊細で、ちょっとでも乱暴な扱いをするとすぐに亀裂がはいったり、関節が外れたりするんです。重さも20kg以上はあって、なかなか思うようには動かない。小まめにメンテナンスもしなくてはならない。それでも所有しようと思うドーラーさんはラブドールに対して愛情を持っている人が多いと思いました。
表面をなぞるだけでは見えてこないラブドールとそれを取り巻く人々の豊かな世界が見えてきた。
ラブドールを通して考える本当の私の欲望
例えば、犬や猫などのペットと家族同然に接する人がいるなかで、ロボットや人形などの生命を持たないものと親密な関係を築く人がこの先増えてきても何らおかしくはない、と言うと少し乱暴に聞こえるだろうか。人工知能の世界的な権威デイビット・レビーは、将来的には、人間がロボットとセックスや結婚が可能になる未来が来ると予言している。ラブドールと人間の関係は、未来の社会を生きる人間の多様な恋愛観や家族観の可能性を示唆しているようにも思える。
また関根はラブドールについて、女性が自身の身体や欲望について見つめ直すきっかけとしても機能するのではないかと考えている。
女性はずっと性の二重基準に阻まれてきました。例えば、男性と女性では異なる性道徳を適応することが挙げられます。私の場合は現時点ではシスジェンダーのヘテロ女性ですが、これまで「性的なもの・ことに無垢であれ」、にも関わらず「産めよ増やせよ」という、相反するものに巻き込まれながら生きてきたなかで、「そもそも私は何を欲望してきたのか/いるのか」と疑問に思ったんです。もしかしたら「私の欲望」なるものは社会によって構築されていて、無意識に享受して再生産していて。そしたら「本当の私の欲望」はどこにいってしまったんだろうって。ラブドールってものによってはデフォルメされていますが限りなく人間の女性に近い姿形をしていますよね。自分と近い姿形をした「もの」、外部化された「身体」と直面したとき、そうした「本当の私の欲望」みたいなものを冷静に考えられる気がしたんです。
2017年にオリエント工業が40周年記念展として主催したラブドールの展示会では来場者の過半数が女性であることが大きな話題となった。彼女らは、複雑な歴史的な経緯と人々の願望を背負い生まれてきた人間そっくりなラブドールと対峙して何を思ったのだろうか。
怖いもの見たさで来た人、人形に自身の理想の身体を重ね合わせる人、男性のむき出しの欲望を垣間見て嫌悪感を覚える人、きっとさまざまだろう。
そもそも男性が理想とする女性の身体を具現化したラブドールを認めて良いのかという視点も十分に考慮する必要がある。そのうえで関根は、「にも関わらず」ラブドールに魅力を感じる女性の背景に目を向け、その奥底にある内面的な欲望について探求していきたいと考えている。
もちろん女性に限ったことではありませんが、女性が女性の欲望を語ることの困難さは根深くあるんです。でも根深いから言っちゃいけないってのは違うと思うんですね。一気に解決することはできないと思うので、草の根運動的な形で、ちょっとづつ問いかけをしていく。声を発していく。ということを今の私たちの世代がやっていく必要があるのかなって思っています。
「世の中で当たり前とされている言説をちょっとづつ解きほぐしていく作業をしていきたい」関根は、世の中から存在しないものとされていること、語りづらいことについて、言葉を尽くして向き合うことで、新しい地平を切り開こうとしている。何気なく日々を生きるなかで、私たちは見えない常識や規範に囚われて自分自身の本当の欲望を見失っているのかもしれない。自分自身の本当の欲望と向き合うことは、他者に対して想像力が働く余地をつくることにも繋がるはずだ。
「割り切れなさと向き合っていきたい」インタビューの終盤、関根は自分に言い聞かせるようにそう繰り返していた。
「当たり前を疑うこと」からスタートして、「今私たちが生きている社会をどう変化させていくか」という果てしないゴールに向けて、じっくりと腰を据えて、問いと向き合い続ける関根の姿勢は、すぐに白か黒か結論を迫られることの多い目まぐるしく加速していく社会のなかで見落としがちな大切なことを思い出させてくれる。