子どもの頃、体育の授業の時間が怖かったという経験はないだろうか。筆者はドッジボールが苦手だった。子ども同士の加減のないボールの投げ合いや、勝ち負けが明確に分かれたあの競技がどうしても好きにはなれなかったのだ。そんなきっかけから運動が苦手だとずっと思っていたのだが、最近は日常的に筋トレをしたりウォーキングをするようになった。自分の体をコントロールし、楽しむことができるようになったからかもしれない。
そんなことを感じていた最中、2022年4月、ナイキより最新の「インパクトレポート」が公開された。ここでいう「インパクト」とは社会や環境への影響のことを指す。つまりナイキが行ってきた活動が社会に対してどのような変化をもたらしているのか、また社会を変えるためにどんな活動をしているのかを報告するためのレポートだ。今年で20年目となるこのレポートはPEOPLE(従業員)、PLAY(コミュニティ)、PLANET(地球)の3つの軸から、ナイキのパーパスを実現するための歩みが報告されている。
そのなかでもPLAYのセクションでは、世界中の子どもたちのスポーツ参加の現状、そしてより多くの子どもたちがスポーツに参加しやすくするためにナイキがしてきた取り組みとその成果が紹介されている。2021年には、女の子55%を含む60万人近くの子どもたちと世界中で接し、子どものスポーツ参加の機会を創出したという。さらに、子どものスポーツ参加を支援する団体やコミュニティへの出資についても報告されている。
このような取り組みを牽引するのがナイキの「ソーシャル・コミュニティ・インパクト」と呼ばれる部署だ。今回話を伺った森本美紀(もりもと みき)も、この部署に所属する1人である。国際NGOからキャリアをスタートさせ、自身もスポーツにのめり込んだ過去があるという彼女に、子どもがスポーツをすることの重要性や、スポーツにおけるジェンダー平等について聞いた。
企業・非営利団体・コミュニティが一緒になって課題を解決する必要がある
ーまず初めに、森本さんご自身について教えてください。ナイキ所属前はどんなキャリアを歩まれてきましたか。
実は、高校生のときに部活にのめり込みすぎて、日本の大学入試の競争についていけませんでした。そこで、将来のために好きなことを伸ばしたいと思ったため、英語を勉強しに3ヶ月だけイギリスに行こうと決意します。3ヶ月の予定がイギリス滞在中にいろんな人に出会って、改めて大学は将来のための選択肢として良いんじゃないかなと思って、何が勉強したいかと感じたときにやはり小さい頃からボランティアや人助けをしたいと思っていたので、開発学を大学にて専攻することにしました。猛勉強の末に、大学を卒業し念願の国際NGOで働くことになりました。
NGOでは、1番最初の赴任地が南スーダンでした。まだ国として独立する前だったので、何もインフラが整っていない状態でした。しかも、スタッフは男性70人以上に対し女性1人だけ。そんなところで開発のための資金集めをしたり、情報発信をしたりしていました。その後は、子どもの教育事業や保護事業の部署へと移りました。
そんななかで、政府だけでなく民間企業も非営利の領域で社会課題を解決する動きが世界的に出てきたんですよね。当時、私は民間企業と非営利団体の間に立つ仕事をしていて、同じ方向を目指しているのに使用している言葉が違いすぎて意思疎通ができていないという課題に気づきました。そこで、いろんなセクターでの経験がある人材が必要だなと思って、NGOから民間企業へと移籍を決めました。
ー新卒一年目でいきなり世界に出たのはすごいですね。ナイキに入ってからはどんなお仕事をされているのでしょうか。
ソーシャル・コミュニティ・インパクトという部署に所属しています。簡単に言うと、社会に変化をもたらすことを役目としている部署です。日本にいながら、対象としているのはアジア全域です。そのなかでも東京やソウルといった主要都市のマーケットに、社会貢献事業を広める取り組みをしています。
ーナイキはスポーツの力で世界を前に進めている企業かと思いますが、森本さんにとってスポーツはどんな存在ですか。
もともとは、スポーツが大好きな子どもでした。3歳から15歳くらいまではバトントワリングをやっていました。その後、中学生・高校生時代は部活でバレーボールをするようになりました。すごくスパルタで、朝の4時に起きて通学、朝練をして、授業中は寝てしまうというような生活でしたね…。そこまでスパルタになると流石に精神的にも肉体的にもきつくて、「スポーツ=楽しい」から、「スポーツ=つらい」という感覚になってしまっていました。これってよくアスリートが体験するようなバーンアウト(燃え尽き症候群)とも似たような現象かなと思います。
それで、この仕事をしていて、なんらかの理由で今スポーツや遊びから離れている子(運動が苦手な子)も、もしかしたらこういう気持ち(スポーツは辛い、面倒臭い、怖い)を抱いているのかもしれないなと気づきました。例えばスポーツが得意じゃない子が、ドッジボールで早い球を見て固まってしまうようなことです。どうやって体を動かすことを楽しいと思えるか、個人のウェルビーイングを大切にしながら継続的にスポーツと良いお付き合いをしていけるのかを仕事でもプライベートでも模索しています。
女の子のスポーツ参加を阻む社会的プレッシャー
ーナイキは20年連続で「インパクトレポート」を出されていますが、これはどんな役割を持つのでしょうか。
ナイキはこの50年全てのアスリート( IF YOU HAVE A BODY, YOU ARE AN ATHLETE <身体さえあれば誰もがアスリートである>– 共同設立者ビル・バウワーマン )にインスピレーションとイノベーションを提供し、パーパス(存在意義)を持ってスポーツを進化させてきました。かつては企業は経済的な活動、価値だけを報告すればよかったのですが、状況が大きく変わってきましたよね。経済的利益や経済価値以外の価値を社会に伝えるための役割をインパクトレポートが担っています。インパクトレポートでは、ナイキのパーパスを実現するための歩みを報告し、透明性を図るとともに、次なる2025年の目標への進捗も公開しています。もともと、アスリートやその周りのコミュニティへの貢献を目的に創立した企業です。なので、ナイキの存在意義はそこにあります。そこに立ち返ってナイキのパーパスを伝えています。
ーレポート内では子どものスポーツ参加や、スポーツをめぐるジェンダー不平等の問題に触れられていますね。具体的にどのような問題があるのでしょうか。
本当にいろいろな課題があるのですが、まず子ども全般に対して言えるのは運動量が足りていないことです。世界中の子どものうち、運動量が足りているのは5人に1人くらい、とも言われていますね。
そして、これをジェンダー別で見てみるとさらに差があるんです。日本だと、6歳から15歳の女の子のスポーツ参加率は男の子よりも20%くらい低いという結果が出ています。
ーそのようなジェンダーによる差があるのはなぜなのでしょうか。
一つは、身体的な変化による影響があると思います。女の子のスポーツ参加率が大きく落ちるのは10歳と14歳の間です。10歳くらいのときには体に大きな変化が起きて、運動しにくくなったりしますよね。それに対して、女性コーチの不足が顕著で、女性の体を理解したうえで指導できる人やロールモデルになる人が少ないことも問題です。これは女性だけではなく、例えばノンバイナリーの生徒を指導するときなどにも、似たような問題が起きるんじゃないかなと思います。
それから、社会や周りからのプレッシャーも女の子のスポーツ参加率を下げる大きな課題だと思います。スポーツそのものが男性向けにつくられていることが多く、設備もルールも男性向けだったりしますよね。それに、社会的な固定観念もプレッシャーになると思います。「肌は白い方がいい」とか「汗はかかない方がいい」とかですね。そういう周りの目を気にしてスポーツに参加しにくい子もいるのではないでしょうか。
・6~15歳の女子の参加率は男子よりも20%低い
・14歳までにスポーツを止める女子は男子の約2倍である
・一度スポーツをやめた女子はその後生涯で再びスポーツを再開することはほぼない
出典:スポーツ庁「平成29年度体力・運動調査結果の概要及び報告書」と自社の調査による
<女の子のスポーツ参加の課題>
1. 女子の興味とそれを支援するインフラに適合したスポーツ環境の欠如
2. 女子のスポーツ参加を妨げる、従来のジェンダーに対する固定観念
3. ハラスメント対策の欠如と、子どもや社会的に弱い立場の若者の保護に対する意識の低さ
4. 女性コーチの不足
5. 女性の身体的変化に関する理解不足
出典:ローレウス・スポーツ・フォー・グッド財団
ー女性に対する社会的風潮がネックになっているということですよね。そもそもなぜ子どもにとってスポーツを含む身体活動が重要なのでしょうか?
まず、よく知られていることですが、運動は健康によくて、運動によって疾病率が低くなると研究で分かっています。でもそれだけではなくて、集中力を高めてくれたり、生産性を上げてくれたり、メンタルを整えてくれる効果があります。
また、ナイキでは「Made to Play」というコミットメントがあり、日本語では「子どもは遊ぶために生まれてきた」という意味があります。この戦略の背景は、子どもの健全な発育と発達のために遊びが欠かせないからです。遊ぶ権利は国連の「子どもの権利条約」でも提唱されている重要な権利です。この遊びには身体的な活動も含まれるのですが、子どもは遊ぶことで体が発達したり、遊びを通じて他者と接することにより社会的なコミュニケーション方法を学ぶので、そういう意味でも、子どもにとっては遊びは重要なんです。
ナイキが取り組む子どものスポーツ参加率アップのためのプログラム
ー子どものスポーツ参加を増やすための取り組みとして「プレー・アカデミー with 大坂なおみ」を展開されていますね。この取り組みについて詳しく教えてください。
プレー・アカデミーは、先ほどお話ししたような女の子のスポーツ参加率が低い状況を改善するために始まった取り組みです。世界中でスポーツを通じた社会貢献活動をしているローレウス・スポーツ・フォー・グッド財団と、アスリートとして活躍する大坂なおみ選手、そしてナイキが一緒になって、女の子がスポーツを楽しめる機会の創出をしています。東京から始まって、ロサンゼルスやハイチなど、さまざまな地域の団体に助成金を出してプログラムを展開しています。
プログラムの手法は各団体の主体性を大事にしているので、個性的で面白い提案をたくさんいただいて、女の子のスポーツ参加率の向上のためにはこんなにいろんなアプローチがあるのかと実感しています。
女の子たちがスポーツや遊びの場に参加するには安心・安全であることが大前提です。これは当たり前であるようで実は難しく、女の子をはじめとするあらゆる子どもたちが安心で安全に参加できる環境作りをするために、「子どものセーフガーディング」について学んでもらう機会も設けています。
ー他にはどんな取り組みをされていますか?
2017年からやっている「JUMP-JAM」(日本語で「ジャン・ジャン」)というプログラムもあります。これはジェンダーに関係なく展開しているプログラムで、スポーツが苦手な子どもたちにも体を動かすことを楽しいと思ってもらえるための取り組みです。
日本の昔からの遊びとスポーツを融合させたゲームを取り入れたプログラムで、6歳から12歳の子どもを対象に東京の児童館などを中心に行われています。スポーツが苦手だと感じる子が気軽に参加できる楽しいプログラムになっていて、一度参加すると、いろんな場所でまたやりたいという声が多く上がってきます。まずは楽しいと子どもたち自身が思うことが重要なので、見るだけの参加から少しずつ各個人が参加したいという気持ちを尊重して参加してもらえるようにすることを意識しています。
ーこれらの取り組みを通して、どんな社会を実現したいですか。
「プレー・アカデミー with 大坂なおみ」や「JUMP-JAM」のプログラムを実施しつつ、他のステークホルダーにもこのような活動を広げていくことがナイキの役割だと思っています。ナイキだけではなくて他のコミュニティや行政などとも連携して、社会課題を解決するためのインパクトを作りたいです。
そして、全ての子どもに遊びやスポーツは自分を表現するツールであり、社会や他人と繋がることのできるツールの一つであるということを感じてほしいなと思っています。子どもたちが自分にあったスポーツは何か、自分がしたい遊びは何かを柔軟に考えることができて、それが実現できる機会がたくさんある社会になったら嬉しいです。
ナイキ インパクトレポート
20年にわたり、ナイキはコミュニティ、地球、そして人々のために、パーパス(存在意義・目的)を実現するための歩みをしっかりと記録してきました。この進捗の報告を通じて透明性を図るとともに、心を新たにさらなる進歩を目指します。2021年度インパクトレポートは、意欲的な2025年の目標への進捗を確認する最初の機会となります。
森本美紀
国際NGOセーブ・ザ・チルドレン・ジャパンにてアジア諸国のプログラム マネージャーを担った後、その現場での経験と知識を活かし、Ernst & Youngではサステナビリティ・コンサルタントとして海外の潮流を理解し、 日本企業のサステナビリティ戦略の策定を行なった。 現在、ナイキにて、アジア・パシフィックのコミュニティ・インパクトの戦略をリードし、地域のニーズに基づいたコミュニティとのパートナーシップ を推進する。ナイキのブランド力を活用し、子どもの身体活動の重要性を社会に向けて発信する役割を担う。