「校則は厳しい必要ある?」自分で考える機会を奪う“中身のないルール”は、日本の未来をも奪う| “社会の普通”に馴染めない人のための『REINAの哲学の部屋』 #007

Text: Reina Tashiro

Photography: Junko Kobayashi unless otherwise stated.

2018.3.15

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こんにちは、伶奈です。大学院まで哲学を専攻しちゃったわたしが、読者から日常の悩みや社会への疑問、憤りを募り、ぐるぐる考えたことを書き綴る連載の第7弾。一方通行ではなくみんなで協働的に考えられるようにしたいので、時に頷き、突っ込みながら読んでくださると嬉しいです。

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伶奈ってだれ?▶︎
「当たり前」を疑わない人へ。「哲学」という“自由になる方法”を知った彼女が「答えも勝敗もない対話」が重要だと考える理由。

今回の相談:校則を厳しくする意味がわかりません

校則を厳しくする意味が本当にわかりません。私は校則のない高校に行ってました。それで幸せだったし今も楽しいのですが、普通の高校では理不尽な校則があって辛いという話をよく聞きます。スカートの丈やら髪色がそんなに大事なのか、まじでわかんないです。小中学校だともっと厳しくて(半ば自主規制のように)親も生徒も萎縮してる気がします。こんな教育じゃつまんない日本にどんどん傾いてくんじゃないかってたまに思っちゃいます。大げさかな。だけど管理する側もされる側もいいことないのにフシギなものだなあって思います。

(いつか、19歳 )

いつかさん、ご相談ありがとうございました。実はこの春から中学の教員になることが決まりました(哲学対話の非常勤講師です)。ちょうど考えなければと思っていたテーマだったので、選ばせていただきました。

意味のわからない校則ばっかり

派手な髪型ピアス化粧は禁止。髪は肩まで、丸刈り、ポニーテルはナンセンス、スカートはひざ下、靴下は白だけ。恋愛禁止(!!!)。あれもダメこれもダメ。人間には、自分で考える力も選択する力もないと思われているのか、ファッションセンスが皆無だと心配されているのか。動物園じゃないんだから。

#ブラック校則#こんな校則いらない を見て、さらに驚愕する。茶色い地毛を黒染めさせ、パンツの色を指定する(!!!)。もはや人権侵害だろと絶句するような文言が並んでいました。

というわたしも、高校こそ「自由で個性的であればあるほど尊い」みたいな変わった学校に通っていたけど、中学は校則が厳しい公立学校でした。一番の記憶は、いちごキャンディーの包み紙が廊下に落ちていたいう驚愕事件が発生した翌日の朝に、学年集会が開かれたこと。「みなさん!!!このいちごキャンディー誰のですか?」ってどんな尋問だよ、と、冷えた体育館に座りながら笑っていた気がする。

でも中学生のわたしは、空疎で意味のないルールに従うことを決意します。最初は、スカートを短くしたりピアスをしたりと、反抗していたのだけど、途中でいちごキャンディーを封印する。そして、ルールに従うと決めたときから、なぜか胸がせいせいして謎の優越感を持つことになります。てか、管理されるのって、めっちゃ楽。思春期のわたし、自覚的な奴隷、である。

いつかさんは、「管理する側もされる側もいいことないのにフシギなものだなあ」と書いていたけど、もしかして違うのかもしれない。そして、校則なんて全部なくなればいいのでは? ルールなんていらんよ、ひとは自由なのでは?と問われても、そうでないとわたしは思う。

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自由とは、ルールの王様になること

校則という城壁を前に中高生のわたしたちが選べる道は、二つ。従うか破るかしかありません。

管理する側は、ルールを作ることで、従う者を褒め称え破る者を罰するという単純な基準を掌握することができるし、ルールを守る側は考えなくていいので楽チン。胸張って生きられるし。ルールを破る、一見自由に飛翔しているように見えるひとも、目の前でダメと言われたことを行えばいいだけなので、どちらにせよ、楽なのだ。
 
みんなルールに圧倒され、縛られている。どちらに転んでも、ルールの奴隷だ。中学のわたしは、小ちゃい反抗なんかでは目の前にそびえ立つ絶対的なルールは落城しないと考えたのだ。

自由は、そんなに簡単じゃない。
 
ドイツの大哲学者カントは、人間の自律(=自由)は「自己立法」だと言います。誰かからあれこれ言われたことを無批判に行うのではなく、理性を行使し自ら立てた規則(ルール)に従うことこそ自由だと。ルールの奴隷になるのではなく、自らに課すルールをつくることだと。

自由とは、ルールの王様になることなのだ。
 
王様にも奴隷にもならず好きに生きればええやん、とも思いたいけど、やっぱりルールは必要。無法地帯では、ひとはひとと一緒にいられないから。他者と共存できないから。家族や友達関係や学校といった小さなコミュニティでも、大きな社会でも、ひとがひとといる限り、ルールは存在し続けます。「ひとを殺したいひと」「殺したくないひと」「殺されたくないひと」が共存するためには、まあ殺しちゃダメだろという決まりがないと、社会は成り立たない。

決まりに従いながらも自由に生きるためには、「なんで殺しちゃいけないのか?」という理由を他者とともに考え、共有することが大事。奴隷制度を産み出してしまう原因は、ルールそのものにあるのではなく、押し付けがましさ思慮のなさ、そして、ルールの理由をそこで生きる他者と共有していないことにあるのではないでしょうか。

「なんでスカートの長さを短くしちゃいけないの?」と勇気をもって先生に聞いたときに「校則だから」と言われたあの理不尽さを思い出します。先生も理由を知らない校則が学校に存在する状況は、ふつうに考えて、恐ろしい。

学校も、生徒が納得できる校則を、生徒と一緒に作ればいいのにね。みんなで理由を考えながら。四月からの哲学対話の授業で、そんな授業もできたらいいなと、ふと考えました。

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「つまらない日本にどんどんなっていく気がする」よね。

最後に学校や教育の役割を少し考えたいと思います。

ルールは必要だけど、ひとはそれぞれ違う。そのことを忘れてはいけないと思います。ファッションや生き方、夢や趣味、性別や性的指向、性自認も。信仰や思想、考え方も。当たり前なことだけど、まじで忘れがち。「みんな一緒」は、妄想。

個性が多様な他者と出会う学校だからこそ、個性を押し込めるのではなく伸ばしていかなければいけないと思います。校則で外見も内面も縛り付けることから、学校や先生もそろそろ解放されたほうがいいよね。
 
そもそも「学び」は「なんで?」という純粋な知的好奇心から生まれました。知識を植えつけたり、誰かが作ったルールにお行儀よく従ったりすることは、学びではありません。学校は、主体的に考える自律したひとを育てなくてはいけません。

教育の目的は、特定の思想や信念を押し付けることではなく、「各自の頭で考えること」を促すもの。人生で待ち受けるだろうあらゆる「選択」(選挙、就活、生き方など)の根拠や理由、基準を考えさせるもの。

「なにを根拠に選ぶべきなのか?」「なぜこれを選んだのか?」「これを選ぶことによって自分や他者、社会はどうなるのか?」という問いを、自分や他者に投げかけ、多様性の海の中でも溺れず息ができるような生きる力を身につけることこそが、いま求められていることだと思います。

続きは一緒に考えてくれたら嬉しいです。意見や批判、感想をお待ちしています。Twitterハッシュタグ「#REINAの哲学の部屋」で。

4月の連載のテーマ募集します!

田代 伶奈

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ベルリン生まれ東京育ち。上智大学哲学研究科博士前期課程修了。「社会に生きる哲学」を目指し、研究の傍ら「哲学対話」の実践に関わるように。自由大学で哲学の講義を開講。Be inspired!ライター。

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※こちらはBe inspired!に掲載された記事です。2018年10月1日にBe inspired!はリニューアルし、NEUTになりました。

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