みなさま、こんにちは。紅子です。
今回は、私も含め若い世代が大人たちから頻繁に“ゆとり”と呼ばれることについて思ったことをまとめてみました。
現在の20代を中心とした若者を指してしばしば使われる言葉「ゆとり」。どちらかというとややネガティブなニュアンスを込めて使われることの多い「ゆとり」だが、そもそもゆとり世代とは具体的にどういった世代のことを指し、そうでない世代と何がどのように違うのだろうか。
今回、一般的に「ゆとり世代」に対しどういった場面でゆとりだと感じるのか、また、なぜそう感じるのかを、ゆとり世代本人たちとそれ以外の世代とに分けて、前回の記事でアンケートを実施した。
その結果に基づいて、この実体のあるようでない「ゆとり」とは何なのか、ゆとり世代本人たちは「ゆとり」に対し何を思うのか等々、少し掘り下げてみた。
そもそも「ゆとり世代」の定義とは
「打たれ弱い」「協調性がない」「野心がない」等、なんとなく甲斐性のない若者をざっくりと指して使われることの多い「ゆとり」という言葉だが、これにはきちんと該当する世代と定義がある。
いわゆる「ゆとり世代」とは、1999年に改正され、2002年より実施された学習指導要領に基づく「ゆとり教育」を受けた世代のことで、これに該当するのが1987年4月2日〜2004年4月1日生まれの現在13歳〜29歳*となっている。(*2017年7月時点)
ゆとり教育が実施された背景には、それまで行われていた暗記中心の詰め込み教育や過度な受験戦争、偏差値重視の教育が、いじめや不登校、非行を誘発しているという批判を受け、無理のない学習環境で自ら学び考える力を育成することを目指し実施したという流れがある。(出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)
具体的にゆとり教育の実施によってそれまでと変わった事は以下の4つなど。
・絶対評価の導入
・教科にとらわれない「総合的な学習の時間」の新設
・各教科の学習内容を3割程度削減
私自身も1990年生まれのゆとり教育直撃世代なので、小学校のある時期から、それまで隔週であったはずの土曜の半日授業がなくなり、「総合的な学習の時間」という、授業内容が毎回バラバラな(ある時は道徳の授業と似た内容を、ある時は自習の時間、ある時は体育館でドッジボールをし、運動会の前はその準備に充てられたりする)謎の時間が突如時間割に組み込まれたのは覚えている。
でも何より一番よく覚えているのは、学年が上がるたびに配られる教科書がペラペラになっていたことだ。特に算数の教科書は70数ページまでしかなく、それなりに重量感のあった低学年の頃と比べ中3の頃には夏の暑い日にうちわ代わりに扇ぐ事が出来るくらいに薄くなっていた。
また、私の代は円周率3.14で習ったが、次の年から円周率は3にされるのだと塾の講師が嘆いていた記憶もある(実際に翌年実施されたのかは定かでないが、周りの同世代に聞いて回ると円周率3で習った人とそうでない人がいるのは事実のようだ)。
「ゆとり教育」をざっとまとめるとこんな感じだが、ではこれらが世間の持つ「ゆとり」のイメージに、一体どう結びついているのだろうか。
どういう時「ゆとり」だと感じるの?
前回の記事の最後に、この記事を書くにあたってのアンケートを「ゆとり世代(65人)」と「ゆとり世代以外(126人)」とに分けて、『どういう場面で「ゆとり」って言われる?』と聞いてみた。その結果がこちら。
ゆとり世代・それ以外の世代共に、少々差はあれどやはり「仕事中」に何かしらのギャップを感じる人が多いようだ。具体的な事例として挙げられた回答はこちら。
・新入社員時代の時に、営業で成績が出せず、周りの先輩とも馴染めず、胃腸炎や鬱っぽくなって会社にいけなくなったときに言われた。同じように後輩も、精神的に病んで会社に来れなくなったときに言われていた。 「弱い人間」「我慢できない人間」「従順に会社のルールに従えない人間」のことを指していたように思う。
・強いて言えば、仕事に求めるものって何?ってバイトしている企業の店長よりも偉いエリアマネージャーの方に聞かれた時に、僕が「福利厚生や…」と答えた際、最近の子っぽいねと言われた。
・私はきっちりと休み時間をとり、残業をなるべくせずに帰るようにしていますし、会社の飲み会でも自分の意見を通すように発言します。たとえ目上の人と反対の意見でも。それをゆとりと茶化されます。
・私もアパレル関係の仕事をしているのですが、仕事柄労働時間が非常に長いです。先輩やベテランの方は自分の時間を全て捨てて仕事や仕事の勉強をするべきだと教えられてきました。 もちろんそれはプロ意識であり素晴らしく尊敬することだとは思うのですが、自分の時間も欲しいと思う時は「これがゆとり世代の考え方なのか」と感じます。
・仕事で、人と比べられること(営業成績等)に対して、とてもネガティブになる所
・以前の勤務先に学生インターンが来た時、社長が雑用を頼んだら、そんな事をする為に来たんじゃない、とすぐ辞めてしまった。
・会社を学校だと思っているフシがある。新入社員が仕事の知識を自主的に身に付けようとしなくなっており、業務上、基本中の基本の知識を尋ねると「教えてもらってないんで!」と半ばキレ気味…。会社にいる以上はお客様からしてみればプロなわけで、1から10までをすべて研修プログラムのように教わるつもりでいたらしい。ちなみに営業職です…。
・私も音大出、仕事柄新しく会った若い人に「連絡下さいね!」と頼んでも返信さえしてくれない。礼儀も何もあったもんじゃないです。仕事を頼みたいのに!
ゆとり世代の回答を見ると、定時上がりや福利厚生などのライフワークバランスを重視し、自分の体調や、自分の意見を大切にしたいといった、「個」を尊重する考えを「ゆとり」と結び付けられた経験が多いようだ。
一方、ゆとり世代以外の回答を見ると、仕事の場面で感じることとしてやや共通しているのは「必要最低限に留まろうとするところ」だろうか。「教えてもらっていないからわからない」「目的以外のことに時間を費やさない」「必要に駆られないと連絡を返さない」等、少々受け身で消極的な姿勢や、他者と比べられる事への嫌悪感などは「野心がない」などと揶揄される所以でもあるのかもしれない。
私が注目する「ゆとり教育」の欠陥。
では、これらの「ゆとり」に対する見方は、その名の通り「ゆとり教育」と関係している事なのだろうか。ゆとり教育の実施に伴い変更された主な内容をもう一度見てみよう。
・完全週5日制
・絶対評価の導入
・「総合的な学習の時間」の新設
・各教科の学習内容を3割程度削減
個人的な感想としては、この項目だけ見ると先程挙げられた「ゆとりたちの言動」がこれに直結しているとは少々考え難く、どちらかというとゆとり教育を受けたからではなく、単に誰もが通る若さ故の責任感や余裕が持てるまでの段階を彼らは踏んでいるに過ぎず、たまたまその「若い世代」に該当するのが今のゆとり教育を受けた世代であることから「ゆとり」と呼ばれるようになったのではないだろうか、とも思う。
ただ、我々ゆとり世代の人格形成にゆとり教育が全く無関係かというとそうでもないと思っている。もしも一般的に言われる「ゆとり」像がゆとり教育と関係しているとすれば、上記4項目のうち私の考える注目すべき点は「絶対評価の導入」だ。
絶対評価とは、それまで採用されていた相対評価が文字通り“学級や学年など、全体の中でどのくらいの位置にいるのかという評価基準”であったのに対し、“全体の出来に対してどうかではなく、あらかじめ設定された指導目標を基準に評価する”というものである。
この絶対評価が何故ゆとり世代の人格形成に影響しているように感じたかというと、絶対評価は相対評価に比べ、教師の主観による判断の傾向が強くなり、客観性に欠けるという指摘が導入当時から数多く寄せられていたから。
また、ゆとり教育導入以降、評価の観点において「関心・意欲・態度」が重要視されるようになったことで、内申点は実質テストの点数が50%、残りの50%は授業態度等で決まるようになった。つまり、苦手な教科でも授業態度を良くすることで半分はカバー出来、逆に得意な科目でも授業態度が悪ければ5段階評価をつけるにあたって減点対象となるわけである。
当然、受験を控えた生徒達は内申点を上げるためにその評価基準に則って良い成績をつけてもらえるよう努めるわけだが、関心や意欲の強さというのは一概に人の目で見て判断出来るものではない。そうなると、内申点を上げたい生徒としてはより模範的な生徒として振る舞おうと意識するだろう。学校側から言われた事に従い、規則からはみ出ることをしないよう、より気を遣うようになるのではないだろうか。
私が中2・中3の頃のことを思い出しても、苦手な教科ほど得点稼ぎができるよう、「全然分かんないけどとりあえず挙手!(笑)」と言いながらやる気をアピールする生徒や(無論それが悪いことではないが)、通知表の他に内申書に書いてもらえる項目を増やすべく「やりたくねー」と言いながら嫌々ボランティアや役員業務に立候補するクラスメイトは少なくなかったように思う。
覚えている限りのこれらの言動から、私たちゆとり世代は、求められた人物像に近付くべく「自分の意思よりも言われた事に従う方が賢明である」という、悪く言えば見え方を優先、質は後というような価値観を、絶対評価を通した教育を経て少なからず持つことになったのではないだろうか。
そしてこれが、「言われた事しかやらない」「自分の意思がない(消極的)」などと言われる要因の一つになっているとは考えられないだろうか。もしそうだとしたら、自ら学び考える力を育成することを目指し実施したというゆとり教育本来の目的とは逆を行ったことになる。そして世代の性格として自然発生的に根付いたものではなく、少なからずこれらの教育が影響しているとしたら、やはり「これだからゆとり世代は」などとゆとり世代本人たちを責めるのは少々理不尽なのではないかとも思う。
ちなみにゆとり教育が始まった2002年、私は小学校6年に上がった年だった。本当は当時中学生だった兄の通知表を参考にしたかったのだが、所在が分からずじまいの為、参考程度に小学校の通知表を比較してみた。こちらは2001年、ゆとり教育導入前年(小学5年)の通知表である。
ぜんぶできている。素晴らしい。各項目を見てみると、授業に関する具体的な内容について出来たか出来ていなかったかが評価されているのがわかる。続いて2002年。ここで「ゆとり教育」が導入される。
学校教育目標にも「よく考え進んで実行する子」と表記されるようになる。各項目の前に「関心・意欲・態度」「技能・表現」などのカテゴリーが加わっている。小6の私は我が国の歴史がさまざまな人々の働きによってつくられていることを分かっていなかったらしい。では中学の頃はどうなっていたかというと、こちらは2005年度、中3の時の通知表である。
4ばっかり!それまでオール5だった英語はオール4になり(満点近く採って4だったのでものすごく不服だったのだが、2年の終わりまでいた教師が異動になってから後任の教師にめちゃくちゃ嫌われていたのは覚えている。前期なんて全部Aなのに4だし)、体育に至ってはオール2。ひどい。運動能力の無さは今も健在である。授業態度は軒並み微妙だったらしい。
小学校と違い具体的な項目はなく、全て統一された観点にABCで評価が付いていることがわかる。久しぶりに見てみた感想としては、英語の評価の不当性を思い出して今更腹が立ってきたということである。あれは完全に教師の主観だったと思う…。ご家庭に通知表の残っている人は読み返してみて欲しい。
ゆとり世代だって悪い面ばかりではない!
しかし、ゆとり世代も悪い面ばかりではない。アンケートの回答を見て行くと、ゆとり世代の回答は「仕事」に次いで「知識(学力)」だったが、ゆとり世代以外の回答と合わせて見てみると「言われたことがない・感じたことがない」という回答や、ゆとり世代に対しての肯定的な意見も多い。具体的な事例は以下にまとめた。
・どちらかといえば自虐的な冗談で言うことが多い
・世間で言われるほどゆとり世代なんて感じたことはない。おっさんにだって所謂『ゆとり』的な人はいる。結局はその人次第だと思うよ
・全く気にしたことがないし、「ゆとり世代」と一括りにすることは失礼だと思う
・僕は経営者で若い子も雇っていますが、感じる事は無いですね。この『ゆとり』という言葉を良い意味で使う事は無いでしょうから、その解釈から言えば、いつの時代も良い奴も出来ない奴もいます。 僕が思うに上に立つ人間の人材不足なのではと思います。部下を上手く操れないから、『ゆとり』という概念で整理すると対外的にも自分的にも楽だし共感を持って貰えるからその言葉を使うのではと思っています。(一部抜粋)
・塾講師をしています。 いわゆる「ゆとり世代」もそれ以外の世代も教えていますが、特に学力面、社会常識等で違いを感じたことはありません。 もちろん、教える内容の変化はありましたが。 個人的には「ゆとり世代」というのは都市伝説のような類の意味のないものだと捉えています。(一部抜粋)
・私の娘がゆとり世代ですが、この世代の人達は、差こそあれ、大体において想像力豊かで、ディベートもでき、発想が柔軟です。 指摘されて以来お付き合いの途絶えてしまう大人もたくさんいるけれど、この世代の人々は概して指摘にも耐え、反論も出てきます。 知識は確かにそう詰め込まれなかったかも知れませんが、調べる自主性、考える力、組み立てる能力、つまり生きる力に富んでいると感じます。 授業も興味深いものでした。うらやましいことがよくあります。
・いい意味で意見を持っていると思う。会社でも創造的な提案を聞きます。個性的だし自分らしく生きることを私たちより自然体でできているように感じます。
・ゆとり世代に対する批判は、各年代共通する年寄りの若い世代に対する批判と考えています 彼らは「いい子」ですが、社会情勢に翻弄されている中、それでも努力していると思っています
・彼らはすばらしい!この世代は文武両道で成功している子が多い。柔らかいものの見方ができ、創造的な子も多く、伸びようとする力もある。学力や知識が足りないうえに、型にはめたがるバブル世代のほうが問題だと思う。
・1960年生まれです。90年代生まれの子どもがふたりいます。彼らやその友人と会話していると、発想の柔軟さ、多角的な思考、周囲への強烈な配慮に驚かされます。
仕事のシーンにおいて打たれ弱くすぐ辞めてしまうとか、自発的に食らいついていかない受け身な姿勢などが嘆かれているのは、裏を返せば一歩引いて冷静に世界を見ていることや、スマホやSNSの普及によって昔に比べ圧倒的に情報量が増え、多様な価値観を目にする機会も増えたことで選択肢がたくさんあるということを知っているため、どこか一箇所にとらわれるのではなくより自分に合ったものを見つけたいという気持ちが強いからではないだろうか。
また、ゆとり世代の回答にあった「自分の体調を優先する」「休みはきっちり取る」「ワークライフバランスを重視する」ことによってゆとりと関連付けられたという事例に関しては、ゆとり世代の判断は何も間違ってはいないように思う。
電通の一件で特に大きな注目を浴びたが、近年は絶えない過労自殺などによって働き方を見直されている時代でもある。もちろん欠勤はしないに越したことはないし仕事を残さないよう頑張れるだけ頑張るというのは素晴らしいことだが、自分の生活や体調を犠牲にして根性だけで乗り切ろうとすることは時に人生を大きく狂わせる。それをゆとり世代はよく知っているのではないだろうか。
社会の中では歯車として働いていてる身体でも、個人の人生においてはエンジンそのものである。
「世代」ではなく、「個人」で人間を見ることが大事。
今回実施したアンケートで「ゆとり世代」についてわかったことを以下の4つにまとめた。
①「打たれ弱い」「協調性がない」などいわゆる今の若者に上の世代が抱いているとされる「ゆとり」イメージは確かに存在する
②しかしそれを「ゆとり」という名で括る根拠については曖昧、もしくは一定ではない
③「ゆとり」という括り方に疑問を持つ人も同じくらい多い
④「ライフワークバランスを大切にする」「柔軟なものの見方ができる」等、嘆かれる面ばかりではない
教育も社会も人を造る。時代が変われば価値観も変わり、一人一人は歳を重ねることで変わっていく。価値観はたぶん確立されないし、統一させることも不可能だ。確立されないものをカテゴライズすることで見えなくなるものは多いし、危険だ。
「ゆとり世代」は確かに存在するが、ゆとり世代の中の「個人」であること、バブル世代の、団塊世代の「個人」であることを忘れないように他者を見つめ、受け入れて行く社会であって欲しい。
BENIKO HASHIMOTO(橋本 紅子)
神奈川県出身。音楽大学卒業後、アパレル販売をしながらシンガーソングライターとして活動を続ける。2015年5月に結成されたSEALDs(=自由と民主主義のための学生緊急行動)に参加しSNSやデモ活動を通して同世代に社会問題について問い掛けるようになる。
※こちらはBe inspired!に掲載された記事です。2018年10月1日にBe inspired!はリニューアルし、NEUTになりました。