NEUT 2022年 特集「イエローライト」
2020年、世界中で新型コロナウイルスが拡大していくと同時に、最初に広がった地域が中国だったことを理由に各国でアジア人に対するヘイトクライムの増加が問題となった。そんななか、欧米を中心に「#StopAsianHate」というハッシュタグの元、アジア人差別に対抗するムーブメントが生まれた。
NEUT Magazineは、海外におけるアジア人差別に声を上げると同時に、日本を拠点とするウェブマガジンとして、日本国内でおきている同じアジア人への差別に目を向けたい。
外国で起きているアジア人差別に関するニュースを遠い国の出来事として見てはいないだろうか? 「アジア料理」「アジアン雑貨」「アジア人」。日本国内でアジアという言葉が使われるとき、どこか日本はアジアではないような印象を受ける。意識の奥深くで、他のアジア諸国と日本を区別し、差別してしまっているのではないか?
特集「イエローライト」では、日本国内におけるアジアンヘイトに目を向け、日本以外のアジアの国にルーツを持つ人々にインタビューを行っていく。
日本にはいくつかの少数民族の人たちが暮らしている。これまでこの連載では「日本以外のアジアにルーツを持つ方」に話を聞いてきたが、ここでアイヌと琉球について取材した。日本における差別について考えるうえで、この2つの民族のことは知らなければならないと感じたからだ。
今回取材した関根摩耶(せきね まや)は、古くから、北海道や東北北部、樺太南や千島列島に暮らしてきた民族アイヌにルーツを持つ。2019年には「アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律」(参照元:e-Gov法令検索)が施行され、アニメや漫画、文化施設の発展など、ここ数年の間にアイヌ文化を保護しようとする動きへの注目は高まってきた。しかし、アイヌ民族の歴史を学んだり、アイヌとして生きる人のリアルな声を聞いたりする機会はまだまだ十分とは言えないだろう。
関根はアイヌとして自分の文化に誇りを持って情報発信をしている。「どんな形であれ知ってもらうことが大事」と語る彼女の目には、日本におけるアイヌ差別やアイヌ文化の表象はどのように映っているのだろうか。現代を生きるアイヌの若者の1人である関根に、自身の民族的アイデンティティについて、またアイヌに関する情報発信活動について話を聞いた。
アイヌは“普通”じゃないと思っていた
ーまず、あなた自身について教えてください。
関根摩耶といいます。北海道の平取町二風谷(びらとりちょうにぶたに)という人口300人ぐらいの小さな集落出身です。人口の8割くらいがアイヌにルーツを持つといわれる地域で、小さな頃から学校でも家でもアイヌの文化に触れながら育ちました。
高校3年生の頃からアイヌ文化を伝えるためのラジオやYouTube、講演会、イベントを始めました。アイヌのことをかっこいいな、素敵だなと思ってもらえるような入口を作りたいと思って活動しています。
ーご家族についても教えてください。また、幼少期はどんなお子さんでしたか。
母方の家系は、母は工芸、おばあちゃんは織物、伯父は木彫り、伯母は刺繍というようにアイヌの工芸を生業としています。父は本州出身でアイヌにルーツがあるわけではありませんが独学でアイヌ語を勉強し、今はアイヌ語の講師をしています。現代ではアイヌ当事者であっても、自分がアイヌであることを知らない、アイヌ語は一つも分からない人がほとんどなのですが、私の場合はそういう意味ですごく恵まれた環境で育ちました。
小さい頃は割と厳しい親だったのですが、私が10歳を過ぎたあたりから何をするにも「お前次第だ」と言って、どんな選択をしても応援してくれる家族でした。それで、中学校は地元を離れて登別に行き、寮生活をしていました。私は門限を破ったり、何も言わずに外泊したり、中学校2年生で退学してと、一般的にはバツ印をつけられるようなことばかりしていました。それでも家族が受け入れて支えてくれたので、今の私があると思っています。
ーとても恵まれた環境に育ったとおっしゃっていましたが、なぜ中学生の頃から地元を離れる決断をしたのでしょうか。また、それによってどんな変化がありましたか。
中学は登別で、高校は札幌に行ったのですが「“普通の”ギャルになりたい」くらいの感覚で地元を出ました。最初は「私はアイヌだ」とも積極的には言わないようにしていました。私のなかの「普通」は学校帰りにファミレスに行って、カラオケに行って、みたいなイメージで、それがアイヌと結びつかなかったんですよね。
だけど、1学年に13クラスもあるような大きな高校に行って、本当にいろんな人に出会って「普通」の概念が変わりました。私が今まで「普通」だと思っていたものも別に「普通」ではなくて、それぞれの人が違う場所で育って違うものが好きだと分かりました。だからこそ、アイヌという自分のルーツも「普通」で面白くて個性にも強みにもなるなと気づくことができたんです。地元から離れて初めて、自分たちの文化を残そうとしているアイヌの人たちがかっこいいな、素敵だなと感じるようになりました。
完璧な説明を求められることへの違和感
ーもともとは自分が「アイヌ」であるとあまり言わないようにしていたとのことですが、それはなぜでしょうか。
あまり言うことにメリットを感じられていなかったんだと思います。小さい頃に地元の大人たちがお酒の場で、アイヌであることによって辛い経験をしたという話をしていたのは聞いていたので、わざわざみんなに「アイヌです」と伝えなくてもいいかなという意識があったのかもしれません。
でも、「アイヌ」って本当は「人」という意味を持つ言葉なんです。どこで生まれようともどんな見た目だろうともみんなアイヌだったんです。今回の取材では「差別」が大きなテーマだと思うのですが、差があるのは当たり前のはずなのに、〇〇人とか国籍とかで人を括ってしまうから排除される人たちが出てきちゃう。今、皆さんが「アイヌ」って分かりやすく区別している人たちも、実は他の地域の人と同じ考え方をしてて、通じるところもあるかもしれない。わざわざ「アイヌです」と言ったり、多様性という言葉を使わずとも、そもそもルーツに関わらず多様な人が生きていると知ったのが10代後半の頃でしたね。
ー関根さんご自身は「アイヌだから」というようにルーツによって偏見のある見方をされた経験はありますか。
地元の話をするときに必要以上に説明を求められることがあるなと感じます。例えばこの文様の意味は?とかアイヌのルーツは?とか。アイヌ以外も、あまり知られていない民族や人種の人たちはそうかもしれません。日本人がみんな和服の説明をできるはずがないのに、アイヌは伝統に関する完璧な説明を求められてしまいます。
他には、「サバイバルが上手そう」とか「自然と共生していそう」とレッテルを貼られることもあります。私のお母さんなんて虫を触れないし、熊肉なんて食べたことない人なんですけどね。
良くも悪くも「アイヌだから」とカテゴライズされてしまうことがあると思います。昔はネガティブなイメージを持たれることも多かったようですが、最近は漫画などの影響もあって逆に神格化されてしまうようなパターンも増えている気がします。
ー世代によってアイヌへの印象は違って過去の差別の歴史を知らない人も多そうですね。
そうですね。そこにギャップがあるのは仕方ないことかなと思っています。あと、アイヌのなかでも「差別されている可哀想な民族」として取り上げられるのはうんざりだという声もあって、もちろん実際に辛い思いをしてきた人の声を伝えるのも大事です。しかし、一理あるなと思うこともあります。
これは地域によっても考え方に差があって、私の地元では差別されたり悔しい思いをしても支え合える仲間が近くにいるので柔軟な対応ができるんだと思います。でも関東に暮らしているアイヌの人だと、メディアで差別的な発言が出たらスタンディングする人もいます。関東は北海道よりもアイヌへ無知無関心な人が多いと思うので、そういう動きになるのも分かります。
かっこよさを伝えて誇りを持ってもらいたい
ー関根さんはさまざまな方法でアイヌのことを発信していますが、情報発信の際に気をつけていることはありますか。
1番気を付けているのは「私も勉強中である」って伝えたり、分からないことは分からないと素直に言ったりすることです。アイヌ当事者でも知らないことはたくさんあって、絶対完璧にはなれないので、完璧ぶらないようにしていますし、「アイヌの代表」として話さないように気をつけています。
そのうえで、アイヌがいかにかっこいいのかということを伝えるように意識しています。小さい頃から、昔の差別の話を聞くことはたくさんあっても、「アイヌってこんなに得なんだぜ」ってブレずに伝えてくれる人が少なかったんですよね。アイヌのかっこいい部分や素敵な部分、アイヌであることを楽しんでいることやさらにはそれで稼ぎも得ている自分の姿を見せられたら、もっとアイヌへの見え方が変わるのかなと思っています。
ーポジティブな表象だけが広まると先ほどおっしゃっていた「神格化」などリプレゼンテーション(文化的な表象)に問題が生じたりもするのかなと思ったのですが、それについてはどうお考えですか。
まずは、無知無関心から脱却して、どんな形であれ知ってもらうことが大事かなと思っています。私からするとアイヌってまだリプレゼンテーションの問題が発生する土俵にすらいっていないと思うんです。本当はアイヌって色白で色素は薄いのに黒塗りの表象がされていたとして、まだそこに誰も違和感を抱かないのが今のアイヌが置かれている状況です。もっとアイヌがメディアなどで取り上げられるのが当たり前になったときに、やっとその視点で話ができるようになるのかなと思っています。
ハキハキと語る関根からは、アイヌ民族としての誇りや地元の文化を愛する気持ちがヒシヒシと伝わってくる。一方で、偏ったアイヌのイメージだけが繰り返しメディアで描かれることの危うさも知ったうえで、過去から未来まで見渡して長期戦を覚悟した彼女の語り口からは、アイヌ民族が背負ってきた歴史を感じる。「まだまだ勉強中です」と彼女は言うが、学ぶべきは当事者だけではない。アイヌの人々が置かれている現状や過去を知らずにエンタメとして消費するだけでいいのだろうか。完璧は目指さなくてもいい。それでも1歩ずつでも知ろうとすることが重要なのではないだろうか。
関根摩耶
1999年生まれ。北海道平取町二風谷の出身のアイヌ。2018年4月より始まった道南バスのアイヌ語アナウンスを務める。2018年度には、STVラジオで「アイヌ語ラジオ講座」のパーソナリティを務めた。現在、YouTubeチャンネル「しとちゃんねる」を運営するなど、多岐にわたりアイヌ文化やアイヌ語について発信している。
アイヌ民族について
・正式名:アイヌ民族
・言語:日本語・アイヌ語
アイヌ語は北海道地方を中心に古くから話されてきた独自の言語。独自の表記方法はなく、現在ではローマ字やカタカナによって示される。その際に従来のカタカナにはない文字(ト゚、ㇰ、ㇷ゚、ㇵなど)も使用される。日本語のなかにもアイヌ語から取り入れられた言葉がある。動物の「ラッコ」や「トナカイ」が代表例である。
<古くから伝わるアイヌ文化>
・生活
衣:動物の毛皮、魚の皮、鳥の羽がついた皮、木や草の繊維など、身近にある材料のほか、交易によって手に入れた絹や木綿など、いろいろな布を使って衣服をつくる。日常的に着る服と晴れ着として着る服が分けられており、晴れ着には「モレウ(渦巻き文)」や「アイウシ(括弧文)」と呼ばれる独特の文様が施されている。
食:調理には「煮る」「焼く」「炊く」という方法が用いられ、主食には山菜をベースに、動物の肉や魚を入れて煮た「オハウ」などがあった。副食には、アワやヒエなどの穀物を煮た「サヨ」、山菜を汁気がなくなるまで煮詰めた「ラタシケプ」があり、生の動物の肉や魚は、串にさして焼いて食べた。
江戸時代には野菜を作るようになり、それらの野菜は多くの料理に用いられた。
(参照)
住:コタンと呼ばれる村に、草や木を使ってチセ(家屋)を建てその中で生活を送っている。
・思想:人間の周りに存在するさまざまな生き物や事象のうち人間にとって重要な働きをするもの、強い影響があるものを「カムイ」と呼ぶ。動植物や山、川などはカムイであり、毛皮や肉として人間の世界にやってくる。
本土とアイヌの歴史 年表
1669年 シャクシャインの戦い
1789年 クナシリ・メナシの戦い
1869年 開拓使設置。蝦夷地を北海道と改称
1899年 「北海道旧土人保護法」公布
1931年 「北海道アイヌ協会」設立
1984年 「アイヌ民族に関する法律(案)」
1985年 アイヌ肖像権裁判
1997年 「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」公布
2007年 国際連合総会にて「先住民族の権利に関する国連宣言」を採択
2008年 「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」が全会一致で採択
2019年 新法「アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律」公布
本土とアイヌの歴史 主要な出来事の解説
・シャクシャインの戦い(1669年)
それまで、アイヌの人々は狩猟や漁によって手に入れたサケなどの品物を松前(現在の北海道南部の都市)や津軽(現在の青森)に売っていたが、徳川家康が松前藩に蝦夷地での交易独占を認め、「黒印状」と呼ばれる文書が発行された。これにより、アイヌの人々の交易は認められた商場に限定され、自由な交易が不可能となった。また、松前藩との間で米とサケの交換比率がアイヌの人たちにとって不利な条件になり、彼らは松前藩に不満を抱き始め、シャクシャインの戦いが勃発した。戦いはシャクシャインが騙し討ちに合い、アイヌの敗北となったが松前藩との交換比率は改善。しかし、アイヌの人たちは刀を取り上げられ、松前藩に従うという誓いを立てさせられた。これにより、和人の優位は確立された。
・クナシリ・メナシの戦い(1789年)
アイヌの人たちの武力による最後の戦い。
松前藩が商人に運上金の増額を求め始めると、商人たちはアイヌの人たちを無理やり働かせ儲けようとした。アイヌの人々を脅し、殴りつけたり、妻を奪ったりする商人もいた。これにより、国後島でアイヌの人たちが立ち上がり、ひどい行いをしていた和人71名を殺害したのがクナシリ・メナシの戦いである。松前藩はこれに対し、話し合いをせずに戦いの指導者37名を処刑。この戦いによって、松前藩の勢力が及んでいなかった道東のアイヌの人々が制圧された。
・蝦夷地に開拓使を設置。北海道に改称。(1869年)
明治維新に伴い、政府は一方的に蝦夷地を日本の一部とするべく、本格的な統治と開拓に乗り出した。アイヌ民族の戸籍作成も行われたが、「旧土人」と記され、和人とは差別され続けた。成人の印となる女性の入れ墨や男性の耳飾りなどアイヌの伝統的な生活習慣や言葉を禁止。日本人風の名前を名乗らせ、日本語の使用を強制する同化政策を行った。
・北海道旧土人保護法(1899年)
北海道庁の設置と土地の払い下げにより、アイヌの人たちの生活は狭められ暖房や調理に必要な薪の調達が難しくなることもあった。また、道庁は財産の管理をする能力がないと決めつけ、アイヌの人々に土地の私有を認めなかった。アイヌの生活は困窮し新聞の報道などにより、対策の必要性が求められた。それにより制定されたものが「北海道旧土人保護法」である。しかし、この法律はアイヌの和人への同化と農耕民化を定めたもので、アイヌの人たちに割り当てられた土地は和人の土地と比べるとひどく荒れた、狭い土地だった。
・北海道アイヌ協会設立(1931年)
大正デモクラシーの風潮のなかアイヌへの差別に対する批判が高まり設立した。1937年には「北海道旧土人保護法」が改正され、①アイヌ民族に対する土地所有権の制限の緩和 ②「不良住宅」の改良事業の新設(和風住宅への改築を図るため)③「特設アイヌ学校」の廃止、④農耕以外の職業への補助の新設が新たに定められたが、戦争により具体化は一部にとどまった。また、和人との共学が実現したが、アイヌの子どもたちはイジメにあうこともあり、社会的な差別は解消されなかった。
・「アイヌ民族に関する法律(案)」(1984年)
戦後に入り、戦前の北海道アイヌ協会とは別の仕組みの新たな「北海道アイヌ協会」が設立。1986年に中曽根康弘首相が「日本は単一民族国家」「日本国籍を持つ方々で、差別を受けている少数民族はいない」と発言したことにより、活発になった。国際連合の「第5回先住民作業部会」にアイヌ民族の代表が登壇するなど国際的にも活動を行った。
・アイヌ肖像権裁判 (1985年)
アイヌ文様刺繍家のチカップ美恵子(本名 伊賀美恵子)さんが、1969年出版の『アイヌ民族誌』に自分の写真が無断で掲載されたため、1985年に編集責任者であった更科源蔵氏らをに訴えた裁判である。肖像権の問題のみならず、「滅びゆく民族」という語り口やアイヌを標本的に扱う態度などについて批判が及んだ。
・アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律(略称:アイヌ文化振興法)(1997年)
萱野 茂が参議院議員に当選しアイヌ民族の国会議員が誕生。「北海道旧土人保護法」は廃止され「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」が制定された。その後この法律に基づき、アイヌの伝統文化を学ぶ機会やアイヌ自身が語り部としてアイヌの精神文化や歴史を伝える機会が増加した。
・「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」(2007年)
国会によってアイヌ民族が先住民族として認められ、内閣官房長官は、「アイヌの人々が先住民族であるとの認識の下に」アイヌ政策に取り組むという政府見解を表明した。これにより、2019年には法律に初めてアイヌ民族を「先住民族」と位置付けた新法「アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律」が公布された。
参考資料:
生活実態調査の実施結果について – 環境生活部アイヌ政策推進局アイヌ政策課
公益財団法人 アイヌ民族文化財団
アイヌ語とは – 環境生活部アイヌ政策推進局アイヌ政策課
アイヌ文化について – ウポポイ(民族共生象徴空間) NATIONAL AINU MUSEUM and PARK
住まう | アイヌ民族~歴史と文化
アイヌ文化とアイヌ民族 – 阿寒湖アイヌコタン
アイヌ民族:歴史と現在-公益財団法人 アイヌ民族文化財団
表象と政治性一アイヌをめぐる文化人類学的言説に関する素描 一
アイヌ民族情報センター活動日誌
チカップ美恵子さんとアイヌ民族運動