「観光地としての“沖縄”と現実はギャップばかり」沖縄出身、東京在住の屋我福美が気付いた、“沖縄いじり”の延長にある差別|イエローライト

Text: Natsu Shirotori

Photography: Jo Motoyo unless otherwise stated.

2022.9.6

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NEUT 2022年 特集「イエローライト」

 2020年、世界中で新型コロナウイルスが拡大していくと同時に、最初に広がった地域が中国だったことを理由に各国でアジア人に対するヘイトクライムの増加が問題となった。そんななか、欧米を中心に「#StopAsianHate」というハッシュタグの元、アジア人差別に対抗するムーブメントが生まれた。
 NEUT Magazineは、海外におけるアジア人差別に声を上げると同時に、日本を拠点とするウェブマガジンとして、日本国内でおきている同じアジア人への差別に目を向けたい。
 外国で起きているアジア人差別に関するニュースを遠い国の出来事として見てはいないだろうか? 「アジア料理」「アジアン雑貨」「アジア人」。日本国内でアジアという言葉が使われるとき、どこか日本はアジアではないような印象を受ける。意識の奥深くで、他のアジア諸国と日本を区別し、差別してしまっているのではないか? 
 特集「イエローライト」では、日本国内におけるアジアンヘイトに目を向け、日本以外のアジアの国にルーツを持つ人々にインタビューを行っていく。

 「沖縄出身なんだ」と聞いたら、思わず「いいな〜」と言いたくならないだろうか。あるいは沖縄出身の方は、言われたことがあるのではないだろうか。南国のリゾート地として沖縄にはポジティブなイメージを持っている人が多いように思う。
 しかし、今回の取材ではそんな明るい沖縄のイメージだけではなく、長い歴史のなかで積み上げられてきた沖縄が現実的に抱えている問題を知ることとなった。話をしてくれたのは、沖縄出身で就職を機に上京し、現在は東京と沖縄を行き来しながら働く屋我福美(やが ふくみ)だ。彼女はこれまで沖縄にルーツがあることを理由に、偏見に基づく棘のある言葉を投げかけられたことがあると言う。さらに、沖縄には沖縄以外に暮らす人々の多くが目を逸らしている、しかし本土と大きく関わりのある政治や経済の根深い問題があるという。そんな問題を知りながらも、彼女はいつかは沖縄に戻りたいと語る。 東京から見た沖縄と、沖縄から見た沖縄、両方を知る彼女にとって沖縄はどんなふうに見えているのだろか、話を聞いた。

※これまでこの連載では「日本以外のアジアにルーツを持つ方」に話を聞いてきたが、前回と今回の記事でアイヌと琉球について取材した。日本における差別について考えるうえで、この2つの民族のことは知らなければならないと感じたからだ。

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屋我福美

自分のことは自分でまかなう

ーまず、あなた自身について教えてください。

沖縄の本島出身で、大学卒業後に上京しました。現在はフリーランスでファッションやライフスタイル関連のプロモーションの仕事をしています。

ーご家族や、幼少期のことについても教えてください。

兄が3人、妹が1人の7人家族です。大家族と思われますが、同年代では割と普通でした。親だけではなく、親戚や近所の方など、皆で助け合って子どもの面倒を見る環境があるので、他の地域に比べて子育てのしやすさはあるかもしれませんね。沖縄には助け合いを意味する「ゆいまーる」という精神があり、それが地域コミュニティにまで根付いているように感じます。

両親は共に沖縄出身で、現在も沖縄に住んでいます。今思うと、経済的には豊かではありませんでしたが、子どもの頃は特にそれを感じることもありませんでした。周りも同じような家庭環境で、高校生になったら自分で奨学金を借りる子が多かったです。奨学金の説明会が行われる教室が一杯になるほどでした。私も高校、大学は奨学金を利用しました。自分のことは自分でまかなう、という意識は強かったと思います。

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「沖縄だから」…からはじまるマイクロアグレッション

ー屋我さんご自身が、沖縄にルーツがあることを理由に差別をされたり、偏見に基づく意見を言われたりしたことはありますか。

正直、これまで「差別を受けた」と感じたことはありませんでした。しかし「沖縄だから時間にルーズだ」とか、出自を絡めた物言いをされることは多々あります。その「沖縄だから」の後には「毛が濃い」とか「肌が黒い」といったくだらないものから、「貧乏だ」「学力が低い」など、沖縄固有の問題に言及するようなものまでさまざまです。私はそれらの発言について気にも留めずにその場をやり過ごしていましたが、人種や地域の差別を学ぶなかで、それがカジュアル・レイシズムに該当するのでは?と考えるようになりました。例えば、BLMに賛同し性差別に反対をするポーズをとりつつも、飲みの席では無自覚に「沖縄だから」と冗談を言って笑う。私は性格上、そこまで大きなダメージは受けませんが、人によっては傷つく人もいるのかもしれません。そう考えると、「見えない差別」は至るところに存在していて、知らぬ間に自分もそこに加担している可能性があるのでは?と自分の言動に一層気を払うようになりました。

ー沖縄の家族や友人、知人が、ルーツを理由に差別を受けていることはありますか。

私たちの親やそれより上の世代は、あからさまな差別も受けていたようです。例えば、沖縄が日本に復帰した直後の東京では「沖縄人お断り」という貼り紙がされていたお店もあったと聞いています。また共通語が上手く喋れないことで、コミュニケーションにも苦労していたそうです。

沖縄は70-80年代に観光地として認知され、90年代にエンタメ産業に注目が集まりました。私の世代は沖縄にポジティブなイメージが根付いた時代に育ったので、先述のような差別を受けることなく過ごしてきました。それは私たちのおじいやおばあたちが、いろんな取り組みをやってきてくれたおかげだと感謝しています。

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ーそういった差別の歴史は学校教育で学んだり、上の世代からよく聞いたりするのでしょうか。

学校で詳しく教えられた記憶はないですね。ただ、おじい、おばあの世代からは「東京なんて行くな」とよく言われます。それはそれで偏見なのですが。彼らの世代は、内地(沖縄県外)に行けば騙される、という印象が残っているみたいで。きっと嫌な思いをすることがあったんだろうな、と思います。

給料1ヶ月10万円の現実

ー上京してからメディアや東京の視点を通しての沖縄と、屋我さんが知っている沖縄にギャップを感じることはありますか。

ギャップは感じますね。それぐらい沖縄のPRが上手くいっているとも言えるのですが。実際の生活はイメージとはかけ離れているように感じます。例えば、沖縄では、社会問題にもなっている年収200万円以下の「ワーキングプア」といわれる労働者が全国平均の3倍にもなっています。正社員でも月の手取りが10万円程の人もいて、家族を養うために共働きで夜まで自宅を空ける家庭も少なくありません。また、沖縄の企業は国からの補助金や助成金を受け続け、なかなか自立できない状況です。この点について、翁長前沖縄知事は「沖縄に魚を配るのではなく、魚の釣り方を教えてほしい」といった発言をしていましたが、今も変わらず補助金や助成金に依存した企業は多くあります。そういった陽の当たらない部分は沖縄県外の人は知らない人が多く、温度感は全然違います。

ー屋我さんご自身も地元のご友人と沖縄の話をするとのことですが、将来的に沖縄に関わっていきたいと考える人は多いのでしょうか。

そうですね。やはり皆、沖縄への郷土愛が強いんだと思います。教育問題や経済問題、基地問題など、沖縄をめぐる問題はさまざまですが、それらを下の世代にまで残すべきではないと考えています。私たちが先人のお陰で、大きな差別を受けずに過ごすことができたように、下の世代のために私たちができることを考えて、行動していきたいですね。

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 暮らす場所・帰る場所としての沖縄と、訪れる場所としての沖縄。どこから見るかによってこれほどにも見え方が変わるのかと驚いた。沖縄返還から今年で50周年だ。「沖縄は日本の一部である」と言いつつ、実際の沖縄で起きている問題からは目を背ける。そんな本州の人々が多いのも事実だろう。屋我のように危機感を持つ沖縄出身者たちとは裏腹に、他の地域からはただバカンスの期間を楽しく過ごすためだけの場所として沖縄に人が集まる。
 沖縄以外に暮らす人々は、政治や教育の問題とひと続きになった沖縄の問題を他人ごととして扱い、観光地として消費するだけでいいのだろうか。あなたが思っているよりも、他人事ではないのかもしれない。

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屋我福美

Instagram

1991年、沖縄生まれ。県内の大学を卒業後、上京。PRエージェンシーやイベント制作会社などを経て、独立。現在は、ファッション・ライフスタイル関連のプロモーションを手がけるほか、沖縄の伝統工芸の振興と技術継承を目的としたプロジェクトを進行中。

琉球・沖縄について

琉球民族
・正式名:琉球民族
・言語:琉球語(琉球方言)

<古くから伝わる琉球文化>
・生活
衣:琉装と呼ばれる伝統的衣装がある。気温の高い土地にあった、和装のようであるが帯を使わないゆとりのあるデザインが特徴的。ウシンチーと呼ばれる。
食:中国からの強い影響を受け、ブタ肉を中心とした料理が発達。また、豆腐も欠かせないもので本州の豆腐より数倍大きな豆腐を使用する。
住:13~14世紀に中国から伝わったとされるシーサーが屋根や門の上に設置される。シーサーはライオン(獅子)と言われ、家から魔物を追い払う役目がある。また、台風や火事が広がるのを防ぐために家を囲むようにフクギという木が植えられていた。

本土と琉球・沖縄の歴史 年表

1372年 大交易時代の始まり
1429年 尚巴志、三山を統一(琉球王国の成立)
1609年 薩摩軍の琉球侵攻
1611年 「掟15条」の令達と二元外交の始まり
1639年 江戸幕府による鎖国完成
1853年 ペリーが琉球に来航。琉球王国は通商を断る。
1871年 明治政府による「廃藩置県」開始
1875~79年 琉球処分
1941年 日本軍の真珠湾攻撃。太平洋戦争開始
1944年 10・10空襲。那覇市の約90%が焼失。
1945年 アメリカの沖縄支配。ポツダム宣言を受理。戦争終結。
1952年 「サンフランシスコ平和条約」締結
1972年 沖縄「祖国復帰」
1995年 米兵少女暴行事件
1996年 普天間飛行場の移設に対して条件付き合意
2009〜10年 鳩山首相 県外移設を目指す
2014年 翁長雄志氏が新知事に
2016年 辺野古訴訟により沖縄県敗訴
2018年 玉城デニー氏が新知事へ

本土と琉球・沖縄の歴史 主要な出来事

・大交易時代(1372年)
中山と呼ばれる小国家の王・察度(さっと)は中国の明王朝に貢物を納め、服従を誓い、皇帝からその国の王であることを承認してもらう「冊封(さっぽう)」を受け取った。その後、明王朝は他の小国家にも冊封を呼びかけ、冊封を受けた国は中国の優れた品物を大量に輸入し、それらを近隣国へ輸出する中継貿易を行った。東アジアや現在のフィリピンやベトナムといった東南アジアと交易を行い、漢方の原料となる植物や象牙を買い入れ、それを中国や日本に売ることで大きな利益を得た。

・琉球王国の成立(1429年)
琉球諸島には約3万2千年前から人々が暮らしていた。12世紀ごろになると「按司(あじ)と呼ばれる一定の政治的勢力が現れ、抗争と和解を繰り返していた。尚巴志(しょうはし)が「按司」を初めて統括し、統一権力を確立した。そうして初の統一国家「琉球王国」が誕生した。

・薩摩軍の琉球侵攻(1609年)
これまで友好な貿易国だった日本だが、1591年になると薩摩の島津⽒が、豊臣秀吉の朝鮮侵略のための軍事的負担を琉球に要求した。その頃、経済的な余裕がなかった琉球は要求の半分を提供することで逃れたが、1603年に江⼾幕府を開いた徳川家康が、薩摩藩へ琉球を幕府に従わせるよう命令を下した。琉球王国は幕府の命令に応じなかったため、薩摩軍が約3,000の兵と100隻の軍船を率いて侵攻。琉球王国はこれに敗れ、薩摩藩の支配下に置かれた。

・二元外交
薩摩藩は中国との交易で得られる利益に目をつけていたため、中国に対しては薩摩藩の支配は隠され、琉球は王国として「冊封」を保ち続けた。よって、琉球は中国と薩摩藩の2つの支配下として振る舞う二元外交を行うこととなった。

・琉球処分(1875~79年)
政治政府の「廃藩置県」により鹿児島県の管轄下に置かれた琉球は明治政府に
①清国との冊封関係の廃止 
②日本の制度や学問を学ぶ若⼿役⼈の派遣 
③藩の政治体制を日本のものと合わせること 
④琉球に日本の軍隊を置くこと
を命じられた。琉球藩は要求を避けるべく交渉を続けるが、1879年に明治政府は軍隊と共に琉球を訪れ、琉球藩を廃止し「沖縄県」とする通達を強行した。

・太平洋戦争
太平洋戦争下の1945年3月、住民は日本軍により「強制集団死(集団自決)」に追い込まれる。同年5月に首里一帯が米軍によって取り囲まれると日本軍は南部のガマ(洞穴)に撤退を開始。しかし、そのガマには多くの一般住人が避難していたため日本軍による追い出しや、⾷料強奪、住⺠虐殺が行われた。また、アメリカは沖縄における日本の行政権と司法権の停止、そして占領の開始を宣言する「ニミッツ布告」を公布し、沖縄を支配した。

・サンフランシスコ平和条約(1952年)
日本はこれにより主権を回復するが、沖縄は引き続きアメリカの施政権下に置かれることとなった。軍の統治下により、人権が侵害され、罪のない住⺠が軍⼈の無謀な⾏為によって命を奪われ、傷つけられることもあった。これにより、住民は本土復帰を強くのぞみ、食糧や住宅の確保、諸権利回復などに取り組み自治権獲得を目指した。

・本土復帰(1972年)
沖縄はついに「本土復帰」を果たしたが、沖縄の⽶軍基地の存続は認められ、住⺠が目指した「基地のない平和な島」とはかけ離れた復帰となった。また、沖縄返還にあたり、日本とアメリカで締結された協定には「米軍の軍用地を田畑に戻す費用をアメリカが払う」という趣旨の内容が記載されていたが、実際には日本政府が肩代わりするという密約がなされていたことなど、問題は残った。現在に至っても、沖縄には米軍基地があり、そこをめぐっての課題は絶えない。

・米兵少女暴行事件(1995年)
米兵3名が女子小学生を拉致し集団強姦した事件が発生。これにより県民の怒りが爆発し、「県民総決起大会」には、8万5000人が集まった。この事件をきっかけとして県内で米軍基地の返還・閉鎖を訴える運動が始まった。

・普天間飛行場の移設に対して条件付き合意(1996年)
反基地運動の高まりを受け、日米両政府は基地を削減する方針で交渉し、普天間飛行場を5〜7年以内に返還することで合意したと発表。しかしこの返還には代わりの基地を沖縄県内に建設するという条件がつけられていた。辺野古地区が代わりの基地の候補地として浮上した。

・鳩山首相 県外移設を目指す(2009〜2010年)
辺野古地区への移設に対する住民の抗議とともに普天間基地の米軍ヘリの墜落などもあり、基地の返還を求める声が高まり、首相の鳩山由紀夫氏が米軍基地を「最低でも県外」に移設することを表明。しかし、事態は首相の思惑通りに動かず、断念する結果となった。

・翁長雄志氏が新知事に(2014年)
2013年沖縄県の仲井真弘多知事は、辺野古沿岸部の埋め立てを承認した。しかし、2014年になると基地反対派の翁長雄志氏が知事に就任。

・辺野古訴訟により沖縄県敗訴(2016年)
知事の翁長雄志氏が埋め立て承認を撤回したことに対し、国は取り消しを撤回するよう是正指示を出した。しかし翁長知事はこれに応じなかったため、訴訟が起こった。これらの訴訟により、沖縄県は敗訴。2017年に辺野古地区の埋め立てが始まった。

・玉城デニー氏が新知事へ(2018年)
翁長雄志氏の急逝により、沖縄知事選が始まる。選挙の結果、翁長氏と同じく基地反対派の玉城デニー氏が当選。しかし、埋め立てはすでに始まっており、知事や県民世論と政府方針が共通していないことが問題となっている。

参考文献:
学習資料ダウンロード | おきなわ修学旅行ナビ
沖縄の歴史と文化/沖縄県教育委員会
琉球王国とは | 首里城について
アメリカ統治下の自治のありさま – 琉球政府の時代
イチからわかる普天間基地の問題、こじれた経緯を10のポイントで整理(沖縄県知事選)
政府、辺野古埋め立て着工 沖縄県は反発|日本経済新聞
普天間基地問題 – 全日本自治団体労働組合

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