戦争を前にファッションにできることってある?ファッションと政治の矛盾とジレンマ|矛盾するファッションの行方 – FASHION CONTRADICTION #001

Text: Lisa Tani

2022.4.12

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「ファッション」に映し出される社会の抱えるさまざまな矛盾。突き詰めた先に見えてくるのは不都合な事実か、相反する真実か?
ファッション業界で活躍するライター・ディレクターのリサタニが、環境問題やジェンダーといったトピックに紐づく“矛盾”を思索しながら、一歩先の未来を現代アジアの「ファッション」に見る。

ロシアがウクライナへと侵攻してからはや1ヶ月が経った。ウクライナをめぐる悲惨なニュースが鳴り止むことはなく、悲しいことに戦争が日常になりつつある。

2022年2月24日、ロシアがウクライナへの侵攻を開始したとのニュースを見て真っ先に思い浮かんだのはキーウにいる友人たちのことだった。日に日に物騒なニュースが増えていくなかで、彼らの身を案じてインスタグラムでメッセージをしたら、「こっちは案外平和にやっているよ」なんて返答が返ってきて、ほっと胸を撫で下ろしていた矢先のことだった。つい昨日までSNSで見ていた、わたしたちが気楽すぎるほどにずっと続くと信じていた友人たちの平和な日常が、目の前で崩れ去っていくのをみて胸が張り裂けるような思いで毎日過ごしていた。

そんななかミラノでファッションウィークが幕を開け、わたしのインスタグラムのストーリーは、きらびやかなキャットウォークの場景と凄惨な戦争の光景で埋め尽くされた。どちらも現実離れした光景ではあるが、あまりに遠いところにあるように思える両者の対比に、言いようのない空虚さとどうしようもない無力さを感じ、もともと違うトピックを取り上げる予定だったこの回で、どうしてもこのことについて書きたいと思い急遽トピックを変更した。

最初はまるで戦争なんて起こっていないかのように不気味な沈黙が続いていたが、時が経つにつれ少しずつ声を上げ始めるブランドが現れた。

ユニクロの真意は?

デザイナーのジョルジオ・アルマーニは、自身のブランドのショーの開始直前に、「今ウクライナで起こっている悲劇の渦中にいる人々への尊敬の念をしめすため、ショーでは音楽を使わないことにした」と述べ、無音でショーを行うことに取り決めた。実際のショーは、静まり返った会場の中にモデルたちの靴音だけが響く異様な光景を呈していた。それはまるで厳かな黙祷のような、戦争を画面越しに見守ることしかできないわたしたちが感じている居心地の悪さに向き合わされる、内省的な祈りの時間だった。

ファッションウィーク中に最も明確に戦争反対を表したブランドは、バレンシアガだろう。かつて自国のジョージアを追われ難民となった経験を持つ、デザイナーのデムナは、ショーの開始前すべての客席にウクライナの国旗を模したTシャツと、自筆のメッセージを置いた。そこには「ウクライナで起こっている戦争は、1993年から僕が抱え続けているトラウマの痛みを呼び起こした。あの年、僕の祖国でも同じことが起き、僕は永遠に難民となった。(略)だから、今週このショーに向けて準備をするのは僕にとって信じられないほど難しかった。こんな時、ファッションは重要ではないし、存在する権利もない。ファッションウィークはばかばかしいことのように思える。僕と僕のチームが懸命に準備してきて、とても楽しみにしていたショーをキャンセルする事も頭をよぎった。けれど、このショーをキャンセルすることは、30年間にも渡って僕を傷つけてきた悪に屈することになると気づいた。僕は、これ以上自分の一部を無意味で無上な、エゴの戦争の犠牲にしたくないと思った」といった、戦争の残虐さを経験した彼にしかわからないであろう、悲痛な記憶と感情が記されていた。彼の生い立ちと、今多くのウクライナ人たちが置かれている境遇の皮肉な一致が、多くの人の心を揺さぶり、SNS上で大きな反響を呼んだ。

いくつかのブランドの対応が賞賛される一方で、批判を集めた企業やブランドもあった。侵攻が始まってからも沈黙を続け、SNS上でいつも通りの情報を発信し続けていたブランドの投稿のコメント欄には、何かしらのアクションを取るよう求める声が多く集まっていた。そしてさまざまな業界が経済制裁としてロシアでの営業を取りやめるなかで、次第にファッション業界でもロシアでの営業を停止するよう求める声が高まっていった。欧米のラグジュアリーブランドの多くは、(単純に嗜好品の輸出入が禁止され難しくなったこともあり)比較的早急にロシア国内での店舗の営業と自社商品の販売を取りやめると発表した。

そんななか、欧米の企業やブランドと若干異なる決断をしたのがユニクロだ。代表取締役会長兼社長である柳井氏は「戦争は絶対にあってはならない」としながら「衣類は生活必需品であり、ロシアの人々も同様に生活する権利を持っている」として、当初はロシア国内での営業を停止しないという姿勢を表し、賛否両論を呼んだ。利益を追求しているだけなのではないかとの批判も多かったが、一般人が衣類を買う必要性や、現地の従業員の雇用を守る責任もあることから否定をしない声もあった。しかし数日後、一転営業を停止すると発表。批判の高まりを受けてなのかは不明だが、いずれにせよ当初の選択はロシアの人々のことを思っての選択ではなかったのかと疑問を抱かせる決断だった。

「何もできない自分」への無力さと、「何かできるはずの企業」への期待

(ロシアのオルガリヒによるブランド、『Team Putin Russia』はもちろんノーコメント)

今、ファッション業界に限らず多くの大企業やブランドは難しい選択を迫られている。今起こっていることに対して、声を上げるか否か、つまりは政治的なステートメントを掲げるか否か、だ。もちろん戦争反対というメッセージに賛同しない人はなかなかいないだろう。だが、これを「戦争」と呼ぶか、「軍事作戦」と呼ぶか、それ自体がすでに対立を生んでしまう政治的ステートメントなのだ。どのような発言をしようが、違う視点の誰かからは批判を受けることになる。かといって沈黙を貫けば、「戦争に反対しないのか」と批判を呼ぶ、そんなジレンマに面している。そこから読み取れるのは、人々が感じている「何もできない自分」への無力さと、「何かできるはずの企業」への期待ではないだろうか。

莫大な富を築いているコングロマリット(複合企業やグループ会社)と一個人がやっているようなブランドを一緒くたにして語ることには限界があるということは念頭におきつつ、まず考えたいのは、例え何か表明したとしても、掲げられた政治的ステートメントが行動を伴わないのは矛盾していないか、ということだ。個人や企業が自分をよく見せようとして、道徳的な声明を公に発表することを揶揄する「美徳シグナリング(Virtue Signaling)」という言葉がある。わたし/わたしたちはこんなにも「善い行い」をしていますよ、と口を大にして発信(シグナリング)しながらも実際にはそれが社会的変革には繋がっていない。そんな例が多くみられる。そしてそんな美徳シグナリングの一例として、「怠け者のアクティビズム」を意味する「スラックティビズム(Slacktivism)」という言葉もある。(slacker<怠け者>と activism<社会運動>からなる造語)

(デムナのメッセージには心を打たれたが、その後目にしたテープでぐるぐる巻きになったキム・カーダシアンの演出には、反戦のメッセージすらも一体どこまでが真摯でどこからがSNSでバズを生み出すために考えられたものだったのかとの疑問を抱かせられてしまうほどの不協和音が響いていた)

インスタグラムに「No War」と書かれた画像を大企業やブランドが投稿することは、多くの人が問題意識を持つことにつながるかもしれない。そしてフォロワーの消費者たちからの「沈黙を続けるな」との批判を避けることにもつながるかもしれない。だが、一過的なマーケティングキャンペーンとしてその言葉を消費してしまうという側面もある。
同時に企業やブランドの「戦争反対」の声が空虚な響きを持つスラックティビズムではないか、本当はもっとできることがあるのにステートメントを出すだけで満足してしまってはいないか、実際に社会的活動、ウクライナの人々への支援活動などをしているのか、を見極めながら、手放しで称賛するだけでなく批判していくことが大事だと思う。

声を上げないブランドの矛盾

行動の伴わない、利益の追求のために行うSNS上のジェスチャーとして政治的ステートメントを使うことは批判したいが、同時に今ウクライナで起きていることに無関心である企業やブランドに対しても疑問を投げかけたい。

例えば、日本に限らずファッション業界で活躍しているモデルのなかにはとても多くのウクライナ人がいる。広告などでウクライナの人々の「イメージ」を利用しながら、今ウクライナで起きていることがまるで自分たちには関係のないことかのように振る舞うのは矛盾していないだろうか。またウクライナには多くのファッションブランドの生産拠点としての側面もあるので、そういった面でウクライナの人々の労働の恩恵を受けている可能性だってある。(参考:BOF

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(先月新宿駅前で行われたデモ『No War 0305』でスピーチをした東京在住のウクライナ人モデルのHanna Frolova。外国人モデルの入国が制限されているなかで、彼女の姿を雑誌やSNSで本当によく見かけた。マウリポリ出身の彼女の言葉からは、連絡の取れない家族への不安と故郷がなくなってしまったことへのやりきれない思いがひしひしと伝わってきた)

日本ではしばしば、ファッションや音楽を含むさまざまなアートが「政治性を持つ」こと自体が批判される。そういった背景もあり、「何もしないこと」を良しとする企業が多いのかもしれない。一昔前にフジロックをめぐり「音楽に政治を持ち込むな」という批判がなされたのが記憶に新しいが、「音楽(や他の芸術)と政治は別物であるべきだ」という主張はそもそも矛盾を孕んでいる。(参考:現代ビジネス
その主張の是非はさておき、問題なのは、個人にせよ企業にせよ、政治的発言をした人に対してその行為自体を嘲笑うシニシズムだ。「〜のくせに政治的発言をするな」という声や、「偽善だ」、「意識が高い」、「どうせ何も変わらない」というような冷笑に隠されたのは、自分の無知や無関心を正当化したい気持ちではないだろうか。声を上げている人に対してそのような言葉を投げかけたところで、何も建設的な議論にはつながらない。先ほどあげたような、美徳シグナリングの例にしても、声を上げること自体ではなく、そのメッセージに行動が伴っていないことが批判されるべきだと思う。

“Silence is compliency” 沈黙=共犯なのか?

一方で、目に見えて分かりやすい形で声をあげていない人たちを無闇に批判することに対しても慎重にならなくてはならないと思う。ここ数年、特にBlack Lives Matter以降、英語で”Silence is compliency”(沈黙は共犯だ)という言葉をよく目にするようになった。これは、人種のようなアイデンティティ政治に関する問題をめぐり、アイデンティティが異なる人々にも当事者意識を持ってもらおうという意図で使われることが多い。だがロシアやウクライナをめぐる政治的問題に関しても、先ほど挙げたSNS上で見られる何かしらのステートメントを求める声のように、同じ批判が行われているのを多く目にする。けれども、この批判にはいくつかの危うい点がある。

(モスクワの地下鉄内で撮られたとされる写真。真偽はわからないが、無言の抵抗にも見える)

一つ目は、誰もが気軽に政治的発言を行える立場にいない、ということだ。今回の記事を書くにあたって、中国のファッション業界に身を置く友人たちにもこの問題に関して意見を聞いてみたが、みな一様に言っていたのは、もちろん個人的に思うところはあるが、欧米のように表立って気軽に政治的発言をすることはできない、ということだ。以前、新疆出身で中国在住のとあるアーティストが、欧米のメディアによるインタビューの中でウイグル族の弾圧についての意見を求められているのを目にしたことがある。アーティストはインタビュー内では明確な批判をせず、そのことでSNS上で、主に欧米の読者から、「弾圧を肯定している」といった批判がなされていた。そんな批判に対して、中国人の友人の一人が、「もしアーティストがあの場で批判をしていたらどうなっていたか全く理解していない、あまりにも無責任な批判だ」と、アーティストの置かれている境遇に対して同情的な意見を言っていたのを思い出した。先月、ロシアではロシア軍に関する「虚情報」の拡散を禁止する法律が成立し、「戦争反対」の言葉が実質的に禁止され、抗議の声を上げた人々が次々と罰されている。日本や欧米の多くの国のように、思想の自由が保証された場所にいると想像するのは難しいかもしれないが、声を上げたくても上げれない状況にいる人たちがいるということを忘れないでおきたい。(参考: REUTERS) 

そして二つ目は、なにかしらの行動を起こしていても、必ずしも誰もがSNSなどで明確にそのことを伝えなくてはいけないわけではないという点だ。企業が「善い行い」をするようにプレッシャーをかけられてきたからこそ、企業の社会的責任といった概念が普及したのはもちろんだ。だが、これは企業だけでなく個人にも言えることだと思うが、「善い行い」を行うこと自体ではなく、自らが行った「善い行い」をいかに他の誰かに伝えるかが目的になってしまうのは空虚だ。また「ファッション」というミディアムにおいて、明確な「言葉」を使って伝えなくてはならないという考え方も、必ずしも正解ではないのではないだろうか。それを体現するような象徴的なコレクションを行ったのがコムデギャルソンだった。「勇気、抵抗、自由」を意味するという黒い薔薇をテーマにしたショーの後、ウクライナで起きていることとの関連を聞かれた​​デザイナーの川久保玲は、テーマは以前から考えていたものだとし、「いつもそういったことは直接的な目的で表現はしません。でも、やはり気持ちの中に入り込んでいたので、(何か関連は)あったかもしれないけれども」と答えた(参照元: FASHION SNAP.COM)。その言葉は、半世紀にわたってコレクションを発表しつづけてきたなかで、幾度も同じように歴史が塗り替えられる瞬間が繰り返されてきたことをうかがわせた。

川久保氏はしばしば英語で「沈黙(Silence)」という言葉を使って形容される。わたしは、そこに日本語と英語のあいだにある「沈黙」に対する考え方の違いが表れているような気がしてならない。日本語と英語、両方を話す人間として感じるのは、日本語は沈黙に対してより寛容だということだ。たとえ友人と二人きりで食事をしていて多少の沈黙が続いたとしても、そこまで気まずく感じることはない。言葉を直接交わすことはなくとも、相手のしぐさや目線などで、相手が心地よく感じていることが読み取れる。だが英語で会話をしていると、沈黙がより際立って感じられる気がする。沈黙の理由を、ちゃんと言葉にして相手に伝えなくてはと思う。これらは個人的な感覚にすぎないのだが。
そして川久保氏も寡黙な人であるのは間違いないのかもしれないが、言葉以外の表現方法や文脈でとても多くを語っているように思える。わたしたちがしぐさや目線で多くを語れるように。

また、沈黙を共犯とみなす、明確なスタンスを取らないといけないという西側の価値観に一極化してしまうナラティヴも、等しく危うく思える。西側のファッションブランドが進んでとった、店舗の営業停止という経済制裁をとっても、実際に最も影響を受ける人間は一般市民で、大企業によるパフォーマンスの側面の方が大きいのではという批判もある。またラグジュアリーブランドなどにおいては実際は贅沢品の輸出が禁止されたことによってビジネスの継続ができなくなっただけなのに、あたかもウクライナへの支持表明のパフォーマンスとしてアピールしているだけなのではとの指摘もある。ロシア国内での営業を継続するとしたユニクロも、最初は、すぐさま主張を翻す様をみて結局ロシアの人々の権利を建前に利益を追求しているだけなのではないかと思っていたが、後日ロシア人のTikTokerが投稿していた、閑散としたショッピングモールの中でそのときまだ唯一営業していたユニクロの前に大行列ができている動画を見て、柳井氏の言葉にも真実はあったのかもしれないと思った。

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今、言葉を信じることがとても難しいと思う。序盤であげた、空虚に感じられる「戦争反対」の声もそうだし、偽情報やプロパガンダで溢れたニュースを見ていてもそう感じる。そんな時こそ、言葉以外のものに目を凝らし、耳を澄ませてみるのが大事なのではないだろうか。消費者として、一個人としてできることは、行動を見極めてそれに対して適切な批判をしていくことだと思う。

戦争という凄惨な現実を目の前にして、ファッションができることはなんなのだろう。
ファッションブランドができることには、募金や雇用といった経済的な支援などがあるだろう。
対してファッション自体の直接的な影響力は政治的ではなくあくまでも文化的にとどまる。けれども軍事行動や経済制裁といった強制的な「ハードパワー」に対し、文化や価値観をもって共感を生む「ソフトパワー」の可能性は過小評価されるべきではない。芸術作品のような衣服にせよ、生活必需品としての衣料品にせよ、ファッションの強みは時代の潮流を洋服に織り込みながら、「美しさ」や「かっこよさ」をもって、人の心を揺さぶるものに昇華することができることだ。たとえ一枚のグラフィックTシャツが、直接的に戦争の解決になることはなくても、そこに込められた祈りが誰かの心を揺さぶり、それが波紋を呼び、いずれ社会的変革をもたらすかもしれない。ファッションだけでなく、ありとあらゆる文化や娯楽が持つ力をわたしは信じている。

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リサタニ (Lisa Tani)

東京都出身。15歳で渡英。帰国後早稲田大学国際教養学部で広告やメディア学を学ぶ。卒業後再び渡欧し、ベルリンに居住後、帰国。
外資系ファッション企業でのブランディングの経験をいかし、クリエイティブコンテンツの企画、制作を手がける。
在学中からライターとして、ファッション、音楽、アクティビズムといったカルチャーをインターセクショナルかつ多文化的な視点から捉える文章を執筆してきた。また音楽イベントWAIFUやAI2X2Xのオーガナイズにも携わるなど、多岐に渡り活動している。
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