新しい服を買うことに罪悪感を感じる?”免罪符”としてのアップサイクルの矛盾を考える|矛盾するファッションの行方 – FASHION CONTRADICTION #002

Text: Lisa Tani

2022.6.14

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「ファッション」に映し出される社会の抱えるさまざまな矛盾。突き詰めた先に見えてくるのは不都合な事実か、相反する真実か?
ファッション業界で活躍するライター・ディレクターのリサタニが、環境問題やジェンダーといったトピックに紐づく“矛盾”を思索しながら、一歩先の未来を現代アジアの「ファッション」に見る。

いつからだろう、新しい服を買うことに罪悪感を感じるようになったのは?
かっこいい、かわいい、美しい、心を動かされる服を、欲しいと思った次の瞬間には頭の中で囁く声がする、“心ゆくままに楽しみすぎてはいけないよ”。“それは本当に必要なのか”、“満たされない欲望を物質で代替的に満たそうとしているだけじゃないか”、“後期資本主義に踊らされているんじゃないか”、そんな懲罰的な台詞が続く。(とはいえ別にそこまで禁欲的な生活を送っているわけでもないので、大抵は聞こえないふりをするんですが)

それでも、新しい服を買うときはそんな調子で誰かに“赦し”を請いながら買っている。これはどうしても欲しいから。あと何十年も使えるから。オーガニックコットンだから。サステナブルだから。だから、無責任に欲望を抱いてしまうことを赦してください、と。そうして「サステナブル」を免罪符にしながらでないと、とてもじゃないがファッションなんて身勝手な贅沢は楽しめない。「サステナビリティ」の前では、わたしたちはみな罪人だ。自分の私欲のために、地球環境を汚染して、罪にまみれた存在であることを認識させられる。

より地球環境に良いものを作ろうと真摯に頑張っている人たちの熱意や取り組みは、心から美しいと思う。それに巨大なファストファッションブランドの「サステナブル」な取り組みだってそれが及ぼし得る影響の規模を考えればとても意味があると思う。でも「環境に良いファッションだからもっと買え」というメッセージにはそこはかとない矛盾を感じる。だってそもそも環境保全と資本主義的な利益の最大化は両立し得ない。

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「未練込みでの決断という倫理性を帯びた決断」

だからといって片方だけを追求すればいいわけではないというのは周知のことだ。明日から自然的な生活を追求してみんな裸で暮らしましょう、というのが“善”で、ファッションビジネスで利益を追求するのが“悪”なのかと言われるとそれもまた違う。

そもそもこの世の全てのモノを「環境に良い・悪い」や「正しい・正しくない」のような単純な二項対立で判断することはできない。どんなに環境に良いとされるものにだって探し出せば悪い側面はある。それでも一度考えだすと、わたしたちはこの価値観のあいだで板挟みになって苦しくなる。自分の選択はどこまで“善”で、どこまで“悪”なんだろうと。

オーガニックの食品を買いながら、大量の水を汚染して作られた服を宣伝する自分。環境を汚染するアパレル業界の現状を批判しながら、その末端でお金を稼ぐ自分。自分にできることをやればいいとは言っても、“できたはず”の可能性を考えると歯痒さを感じる。このやりどころのなさや居心地の悪さはどこまでも付き纏うものなのだろうか。善・悪で捉えられないとしたら、自分の選択が間違っていないか知りたくて不安になった時、何を判断基準にすれば良いのだろう。

そんな判断基準の一つとして、千葉雅也さんの『現代思想入門』にある「未練込みでの決断という倫理性を帯びた決断」という言葉がとてもしっくりきた。千葉さんは、この本の中で「人間はやはり秩序を求めて、何か一方的な価値観を主張する場面が出てきます。それに対し、別の他者的な観点があり、押したり押し返されたりというのを繰り返す状態になります。(中略)我々には何かを決断する必要がやはりあります」とし、そんな時に感じる未練=他者性への配慮なのだと述べている。 そして現実性においてバランスを考えながら(かつ倫理に基づいて)「人が何らかの決断をせざるをえないということは『赦す』しかないのです」、と記している。未練があること自体が、その決断が切り捨ててしまった他者への思いやりの証拠であって、結果どうなったかではなくそれを感じること自体に意味がある、という優しい考え方が心に響いた。でもそこに残る未練を“赦す”には?

免罪符としてのアップサイクル

近年よく耳にするようになった「アップサイクル」という言葉は、そんな“赦し”を求めるわたしたちの耳に心地よく響く。アップサイクルとは、「今あるものを利用して別の用途のものに作り替え、付加価値を与えること」を意味する言葉だ(参照元:SDGs ACTION!)。大きなアパレル産業全体でいえば、パタゴニアの先駆的な取り組みや、近年のハイファッションではフランスのデザイナー、マリーン・セルの捨てられたデニムやラグを使って服を生産する取り組みなどが印象的かもしれない。

燃やされてしまうはずだったゴミが、デザインにより新たに命を吹き込まれ、高価な服として生まれ変わる。そのストーリーは感動的だし、ゼロから服を生み出す既存のシステムよりずっとずっと持続可能だ。サーキュラーエコノミーを推進する団体である英国のエレン・マッカーサー財団によると、ファッション業界全体で年間5億3000万トンもの繊維を生産するものの、そのうちの70%がゴミとして埋立地に埋められるか燃やされる。新しい服を生み出すために使われる繊維は1%にも満たない(参照元:BoF)。あきらかに新しい服の供給が過多である中で、アップサイクルはオルタナティブな選択として人気を得ている。

とはいえ、使われなくなった衣服から新たに服をデザインすること自体は昔から行われていた。日本では使われなくなった布を細かく裂いて新たに織り上げて作られた「裂織」と呼ばれる織物や衣服が存在していたし、より最近ではリメイクやリサイクルという概念も馴染み深いのではないだろうか。

リメイク、リサイクル、そしてアップサイクルから紐解く歴史


この頃のFRUiTSではみんなアップサイクルでもリサイクルでもリメイクでもDIYでもなく「手作り」とか「自作」と書いている(笑)

リメイク、リサイクル、そしてアップサイクル。これらの言葉の違いはなんだろう?
さまざまな文脈で使われることのあるこれらの言葉だが、服に関してだけ言えば、個人的な主観だが、「リメイク」にはあまり環境問題への意識がみられない気がする。そこにあるのはどちらかといえば個人がなにかを自分の好きなように作り替えることによって生まれるDIY的楽しさなのではないだろうか。一方「リサイクル」は環境問題に対する明確な意識がある。正確には「使い終えたものを原料に戻し、資源として再利用する」という意味(参照元:SDGs ACTION!)だが、ファッションに限っていえば、かならずしも原料にまで戻さなくとも、環境意識のある「リメイク」のような意味で使われることもある。そして「アップサイクル」は、「リメイク」と「リサイクル」の良いとこどりをしながら、さらに元より「価値」が高いというのがミソだ。資本主義社会において、より価値があるというのは記号としてわかりやすい。とはいえそれぞれが同じような意味合いで使われることもあり、意味の違いはわりと曖昧だと思うが、「アップサイクル」が使い古された「リメイク」や「リサイクル」という言葉よりずっと新鮮さがあるのは確かだし(「アップサイクル」という言葉自体がアップサイクルされたものなのだ)、「価値」がより高くなるなら利益性と相反せずラグジュアリーブランドもこぞって取り組んでいるのが特徴ではないだろうか。あくまでも個人的な価値観の中で完結する「リメイク」や、環境に良いがアウトプットされるものの価値はかならずしも前より高いとは限らない、要はちょっと貧乏くさい「リサイクル」と比べ、市場というわかりやすい第三者によってその「価値」が認められているのだ。誰かからの”赦し”を求めるわたしたちにとって、市場からの”赦し”は心地良い。

けれどもわたしたちは別に“赦し”や“(どちらかと言えば)環境に悪くない”なんて息苦しくなるような理由だけでアップサイクルされたモノを求めているわけではないと思う。ファッションである限り、やっぱり楽しくて心躍るものであってほしい。いくらアップサイクルだからといって、大企業が片手間に始めたようなアップサイクルブランドの、テキトーに残布を張り合わせたトートバッグを「サステナブルな一点物です」と言われても、心から愛して一生使い続けたいと思う人が一体何人いるのだろう?

“環境に良いこと”だけを目的に据えることができないのならば、なにを目指せばいいのだろう。そんな疑問の答えになるのが、90年代から00年代初頭にかけて絶大な人気を誇ったファッションブランド「20471120」とそのデザイナーである中川正博氏による「東京リサイクル・プロジェクト」かもしれない。20471120は、デザイナーの中川正博氏とLICA氏によるブランドだ。友人同士であった両氏が90年代初頭、大阪で設立したブランド、BELLISSIMAを前身としたこのブランドは、瞬く間に裏原を中心に人気を博し、1995年には東京コレクションにデビュー。そして1997年には異例の速さでパリコレ進出を果たしている。そんな生活のなか、デザイナーの中川氏は多忙を極めていたが、ある日自宅にあった大量のなぜ買ったのかも思い出せないモノたちを目にしてふとそんなモノたちが体現している「なんとなく過ぎ去っていく日々」に疑問を抱く。そうして1999年に20471120のコレクションとしてスタートしたのが「東京リサイクル・プロジェクト」だ(参照元:MASAHIRO NAKAGAWA)。

服の再生、心の再生

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「東京リサイクル・プロジェクト」第一回のプロセス、服だけでなくシステムをもデザインしていたことが分かる
出典: TOKYO RECYCLE PROJECT

「東京リサイクル・プロジェクト」は、服の再生を通しての「心の形の再生」をテーマにしている。20471120の2000年春夏コレクションとして発表された1回目のプロジェクトでは、ブランドが交流のあったさまざまな人から募った思い出の詰まった古着を、母親からの仕送りに見立てて手紙とともに送ってもらい、そこに記された記憶や思いを汲み取りながらデザインを考え”リサイクル”した。中川氏は、この形式にした理由について「都会で働く息子に母親がセーターやお菓子を袋詰めにして送る時の、目に見えない気持ち自体を服にしたいと思って」、と語っている。

またこのプロジェクトを語るにあたって欠かせないのが「VINYちゃん」、「ダッピ君」そして「ぬけがら君」というキャラクターだ。疲れ果てた現代人から現れ、首に巻きつくことによってその人を癒すという「VINYちゃん」、元気になった人が脱ぎ捨てていく「ダッピ君」、そうして生まれ変わった人のみが生み出すことのできる、再生のシンボル「ぬけがら君」。「東京リサイクル・プロジェクト」では、送られてきた服にまるで魂を吹き込むように、この「ぬけがら君」をパーツとして組み合わせながら、服を新たに作り替えた。

そこには「モノには魂が宿る」という日本的な考え方が反映されている気がする。服をただ単にデザインしなおすだけではなく、まさに再び生まれかわらせるような。

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「東京リサイクル・プロジェクト」にて生まれ変わった服達
出典: MASAHIRO NAKAGAWA

2回目は参加企画とし、2000年3月から4月にかけてワタリウム美術館で開催された。思い思いの服を持ち寄った参加者が、デザイナーたちと直接一対一でコミュニケーションを重ね、その思いや個性を反映させ生まれ変わった服を、デザイナーからの返事の手紙と一緒に受け渡した。3回目では、形式をファッションショーとし、20世紀のファッション史を10年ごとに区切り、それぞれの年代を仕入れた古着を使ってモードに表現し、ファッションの歴史をもリサイクルするという試みが行われた。その後も、さまざまな形で「東京リサイクル・プロジェクト」は行われ、ニューヨークをはじめとした世界各国でショーを行うなど大きな反響を呼んだ。

個人的な動機と社会的な環境保全のあいだで

1999年という年に、このプロジェクトが始動したのはきっと単なる偶然ではない。この年、ユニクロのフリースブームなどを受け日本のアパレル供給量は激増した。1998年から2000年にかけ、アパレル製品の供給量は41.5%増加し、結果として1998年には71.1%の消化率だったのが、2000年には54.3%まで急落(参照元:東洋経済)。たった数年で生産される服の半分近くが売れ残るようになってしまったのだ。1998年から2000年にかけての日本のアパレル業界の状況は、2000年から2015年にかけて生産量が2倍になった(参照元:エレン・マッカーサー財団)。世界のトレンドを不幸にも先取りしていた。だからこそ、生産量の増加から削減へと、限りある資材の利用から繰り返し使える資源の利用へと、今まさに転機を迎えている世界にとって、当時の20471120の先駆的な取り組みが一種の地図になるかもしれない。

けれども、このプロジェクトが多くの人の心を揺さぶったのは、”リサイクル”をテーマにしつつも環境保全ではなく極めて個人的な記憶や時間、そして心といったものの再生にその軸を置いたからなのではないかと思う。(そしてもちろんそのデザインがめちゃくちゃかっこいいから)

中川氏は、あるインタビューのなかで服を再生することについて、「単に、『もったいない』という思いからの作り替えではダメ」と語っている。ファッションを通じた環境保全には哲学性を追求するとかえってそこにたどり着けないような、なんともいえないもどかしさがある。

ファッションの醍醐味は、きっとやすやすと言葉にできないところにある。陳腐な言葉で言語化されなくても、明確な意図は、圧倒的な美しさと作り手の愛情を通して伝えられた時に、わたしたちの心を震わせ共感を呼ぶ。そしてわたしたちはかっこいい・かわいい・美しいデザインを通して、もっと深いところにあるものを求めている気がする。それは例えば、人の手が生み出したものが持つ誰かの手の温もりや、この世に一人しか存在しない特別な存在である自分のための一着の特別さのようなものなのかもしれない。それはやっぱりなんだかうまく言語化できない領域だ。

だから、真の持続可能性は地球環境を救うためといった大義名分的な動機や高慢なイデオロギーの押し付けではなく、個人の美意識や価値観にそって作られた、パーソナルで矛盾のない仕事から生まれるのではないだろうか。しかしそれは、それを生み出す側にも、享受する側にも、必ず何かしらの未練を残す。(かくいうわたしもこれを一種の禊のようなものとして書いている節があります…)だけどそんな未練を原動力にしてわたしたちは進み続けるのかもしれない。環境も個人も疎外しないファッション、その意味を考えている。

参考文献:
千葉雅也『現代思想入門』 (講談社現代新書)
『美術手帖』2000年6月号(美術出版社)
『美術手帖』 2002年7月号(美術出版社)
中川正博『中川正博』(リトルモア)
『FRUiTS』 1997年5月号
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