パンクロッカーから養鶏農家に。ベイン理紗が東京から山梨に移住した先輩に聞いた、人生の転機|FEEL FARM FIELD #004 後編

Text: Lisa Bayne

2022.7.19

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前編は、ついに収穫できた野菜とそれを配ることで生まれた繋がりの話。後編ではその葉大根を育てた畑を貸してくれている養鶏農家へインタビュー。

前編では、収穫した葉大根について綴らせてもらったけれど、その葉大根ができた場所というのが養鶏場「ROOSTER-HENHOUSE(以下、ルースター)」と牧場キャンプ「鶏は泥から」がある北杜市武川町。私はここでも、畑を借りているのである。そしてこの2つの場所の代表は、ミツさんこと徳光康平(とくみつ こうへい)さん。元パンクロッカー現養鶏農家というなんともパンチの効いた経歴の持ち主だ。

ルースターの存在は、食通から名前を聞いたり連載で登場したイエローページセタガヤにも時たま商品を出荷したりしていることもあって、実際に訪れる前から知っていた。

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2016年からスタートしたルースターが提供する卵は平飼いのもの。本来みなさんが知っている卵の黄身は橙色かもしれませんが、ルースターの卵は黄色で、これは与えている餌によるもの。濃厚な旨味がぎゅっと詰まっていてとても美味しい。農場経営と卵の出荷に加え、卵拾い体験や猟師の資格を生かした解体ワークショップやイベントなど、多方面での場所づくりをしている。

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一方、「鶏は泥から」はミツさんが牧場キャンプ場として運営していて、農場内にある古民家を利用したキャンプはもちろん、バーベキューやトレーラーハウスを利用したファームステイなどの展開もしている。広大な土地と自然、景色を独り占めしながら子どもから大人まで楽しめる場所。

昨年、とにかくハングリーに何かを知らなくちゃいけない、知るべきことがあるはず、とちょっとした焦燥感を抱きながら畑がある北杜市通いを始めた私は、0siteやルースターを訪れたり、北杜市で出会う人と時間を共にしたりすると肩の力が抜けるような安心感というか、帰ってきたような感覚を得られるようになった。それはもしかしたら、代表のミツさんと私が、同じように東京で勝負をしてきたところから、災害を機に価値観が変わったという共通点があるからなのかもしれない。

ミツさんは、東京から34歳のときに山梨に移住したそうだ。東京にいた頃はパンクロックバンドの一員として活動しながらアパレルに勤めていた。そして2011年3月11日に起きた東日本大震災をきっかけに、生活が揺さぶられ、自分のいる環境や自分自身にさえ疑問を持ち始めていたという。

「外の要因で自分のライフスタイルが変わったり、自分の感情を揺さぶられるのなんて嫌だって思ったんだよね。そういうこと(意図せず突発的に起きた災害や事故)に対してどこに不備があって誰が悪かったのかって探すけど、その行為が普通になってることが俺はどうかしてると思うようになった。ガソリンがない、食料がないって、誰のせいでもないんだよ」

これはまさに2020年に起きたパンデミックに対して私が感じたことだった。予期せぬ新型コロナウイルスの拡大によって生活を考えることを避けられない事態に陥り、私たちは常にウイルスの感染源や感染経路を探している。それ自体は確かにこの緊急事態を解決するためには必要不可欠である。だが、本当にそれだけなのか?それだけが問題の糸口なのか?と。2011年にミツさんの中に出てきていた疑問が、2020年に私の中で生まれていたということだ。

「そういうことを考えるようになってから、第一次産業に興味を持ち始めたんだよね。その時はアパレルに勤めながらバンド活動してたんだけど、区民図書館で本を借りて、アパレルが暇な時はずっと農業とか林業とか生活に必要不可欠な産業のいろんな本を読んでた」

そこで彼が養鶏農家へとすすむきっかけとなった1冊に出会った。それが「自然卵養鶏法」という本だ。この本の著者である中島正さんは、小羽数、平飼い養鶏を実践・普及させた1人の人物。時代と共に発展していく農業や社会に警鐘を鳴らし、自然循環型農業や自給養鶏を通して自立性や共生について綴っている。そうしてミツさんは動き出したのだ。けれど、震災の経験をきっかけに結婚そして出産、バンド活動や仕事もあったため東京近郊でなければいけないと当時は思っていたそうだ。

「その時はライブのために海外へ行ったり東京での仕事もあったりして、東京近郊じゃないといけなかった。神奈川県にある三浦半島か山梨県にある北杜のどっちかで養鶏の就農の募集があったんだよね。それぞれ行ってみて、空気・匂い・環境、全部がすごく心地よくて、北杜を選んだ」

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それから住み込みという形で就農を開始して、1ヶ月後にはバンドや仕事を置いて家族と共に山梨県へ移住。就農を終えて、2016年にROOSTER HENHOUSEが始動したのである。私がここまで連載で出会う人はほとんどが県外から北杜市へ移住してきて、活動している。みんな口を揃えて自然環境の良さについて話してくれるけど、私にはそれだけではないような気がしていた。なにかもっと人柄や人との関係性のようなものがあるような。するとそれは間違ってもいなかった。

「ある意味北杜市にはローカル感がないのかもね。移住者がすごく多いからいろんな場所からこっち(北杜市)に来てて。するとものすごく自然への感度が高いから、田舎暮らしの中にある手間とか面倒臭さみたいなものがむしろいいバランスになってるんだよね。東京だったらお金でどうにかなるものをなんでも、自分たちでなんとかするのが新鮮で面白い、みたいな(笑)」

そんなミツさんは、東京にいた時の自分と山梨にいる今の自分のなかに大きな変化があるという。それが、個性や突出した自分の中にある何か象徴みたいなものを追い求め続ける必要がなくなったこと。

「このあいだ一緒にバンドやってた友達が遊びに来て『ミツ今何の車乗ってんの?』って聞かれてファミリーカーを答えたらすごいびっくりしてて(笑)。『あんなにバイクとか車いじってたミツが!?』みたいな。東京にいた頃は持ってるバイクとか車のパーツを変えて周りと差をつけることが自分の象徴だった。けどそれが疲れたからとか、その座を降りたいと思って降りたわけじゃなくて、今はただ単にそこに興味がなくなっただけ。東京にいた頃は、常に変化を求められてる焦燥感とか謎のプレッシャー、常に更新されてることがステータスみたいなものをすごく感じていたけど、それは自分のペースじゃない気がする。そこに執着しなくなった」

取材中に勧められた本がある。それが1973年に論文が発表され、2008年に単行本化した『まなざしの地獄』という本。社会学者である見田宗介(みた むねすけ)が1968年から1969年にかけて起きた連続ピストル事件の犯人を分析したものだ。そこで時代の社会構造に伴う都市差別について言及されている。

「『まなざしの地獄』っていう本があるんだけど、面白いと思うよ。本に出てくる犯人は当時まだ19歳ですごく貧困な生活で社会に参加することが全然できる環境じゃなかった。それで『此処ではない何処か』に行けばなにかあるかもしれないと集団就職で上京するんだけど、父親は物心ついた時からおらず、5歳の時に母親に捨てられた彼は家族愛を知ることもできなかった上に、学校に行くことができず学ぶこともできなかった。家族や学校という社会を経験していなかったから馴染むことができず、いじめにあってうまくいかなかった。それじゃあ日本を出たら『此処ではない何処か』があるかもしれないって密航しようとするんだけどうまくいかなくて、ピストルを盗んで事件を起こしてしまう。ただ社会に参加して自由を求めてただけの彼を社会が拒絶しちゃうっていう。何が言いたいかっていうと、結局は自分がその地域に住んでいる中でどうやって気持ちをシフトするかだと思う。どのタイミングかっていうのも大事かもしれないね」

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ルースターにて、ミツさんのお子さんと

1950年代を苦しく生きた果てに起きてしまった1970年代の事件と、2000年代に生まれ大学へ通っている私の人生や社会を比較することはできない。けれど、この記事を書いている最中、職場に友人が遊びにきて話したことを思い出した。「幸せってなんだろうね」「自分の幸せを願っても社会がそれをよしとしてない時もあるよね」と。今この時代で差別や排除がないのか?生きているすべての人に充分な社会になっているのか?性別、人種、環境関係なくすべての人が平等に選択できる自由や主張する権利を持つことが可能なのか?時たま、私でさえそれを指摘されるまで気付かないうちにその自由や権利を振り回してしまっている時がある。なぜなら私の人生はとてつもなく恵まれているはずだからだ。教育を受けてきた恩恵は計り知れないし、家族や兄弟、人間関係における社会経験をたくさんしてきた。これまでもこれからも私自身が退けない限り学ぶことも経験することもできる環境にいると言える。本当は誰もがそれぞれの幸せを手にする権利があるはずの中で、それらをどこに求めてどこがそれを受け止めるのか。これはどんな時代でもどんな社会でも、常に考えていかなくちゃいけない最重要トピックなのである。そういう気持ちや疑問のきっかけというのが、ミツさんは東日本大震災で、私はコロナ禍ということ。その先にあったのが山梨県北杜市で、今後それって多分どんどん変わっていく気がする。まさに、ミツさんの口からも同じような言葉が出た。

「東京と山梨にいても変わらないのは、世の中と関わり続けたいってことと、何かを発信しなきゃっていう気持ち。僕が東京にいた時はバイクとバンドをずっと続けて『ここ楽しいからみんな来れば』っていう気持ちでずっとやってた。僕が今山梨にいる時はこのルースターと鶏は泥からを続けて『ここ楽しいからみんな来れば』ってやってる。自分が生きてる時代で必要だなと思うこと、僕は今これが楽しい、今はこのモードです、っていうのをちゃんと発信して、どこかに届けることはずっとどこにいても変わらずに続けてると思う」

最後に、ルースターという養鶏場と鶏は泥からという牧場キャンプの運営を通して作られているコミュニティの魅力や場所作りのこれからについて話してくれた。

「ルースターも、山梨だけじゃなくてどんどんフィールドを広げていきたい。前に手伝ってくれていた子はいま沖縄の西表島でツアーガイドをしながら生活してるし、今手伝ってくれてる子も東京からきてフィールドを広げてくれてる。それが沖縄でも北海道でも山梨でもどこでも良くて、そういう、ルースターからいろんなフィールドに場所ができて人がつながっていけたらすごくいいなって思う。それで、生きづらく感じたり、都市に疲れてたりなんでもいいけど『ここ楽しいからくれば』って誰かが来て、東京でもどこでも自分の社会の中に戻った時、ルースターと鶏は泥からでのことを思い出して、自分のペースや生活を大事にしてもらえたら、それでいいかなって思う」

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ここまでの連載とインタビューを経て、私はなぜ今東京にいながら山梨まで通って畑をしているのかを考えてみました。東京を拠点としている理由には、大学生だから通学しなくちゃいけない、東京に実家があるから、といろいろある。学生、モデル、クリエイターと書き出せばいろいろな肩書きを持つことができるかもしれないけど、結局私は私でしかない。そしてきっと、私にも、「今の私のモード」があって、「私に今必要なこと」をしているだけ。それぞれを私は今楽しんでいる。

東京にいると自己紹介とか出会いの中で「何者なのか」というのを求められる機会が多い。それに常にやってることが変わることが飽き性だと捉えられたり続かないと捉えられたりすることもあった。もしあなたも東京での目まぐるしい日々についていけなくなったらルースター、鶏は泥から、そして0site、これらのウェブサイトやSNSを開いて連絡をして行ってみるといい。それがきっかけでもしかしたら山梨や東京とは全然違う場所に辿り着いているかもしれない。また、そういうような道を赦してくれる環境があること。誰も独りにならないような社会があること。いろいろな悲しいことが起きても、どこかで自分の確固たるものを持つことのできるような場所づくりができることというのが、この先の未来で重宝されなくてはいけない。インタビューの終わりに世間話をしながら「ルースターって大人のフリースクールとかシェルターとか、なんか学童っぽいですよね」というと笑いながら「そうだね」とミツさんは答えてくれた。わたしはそういう類の場所として、ルースターや鶏は泥からがあってもいいなと勝手ながら願っているし、是非一度、現地の施設を利用してみてほしい。

実際私は今、東京で生活しながらさまざまな刺激を求めて山梨を始め、いろいろな場所や出会いへ出向く自分自身を楽しみにしながらこの記事を書いてる。

そして、今年の夏は海外へ少し行ってきます。1ヶ月半ほどヨーロッパを周る予定。

ここ最近は向き合いにくい現実や起こり続ける悲劇、いろんな面で心を痛める機会が多いけれど、一番大事なのは、自分である。身近にある豊かさについて考えて動いてみて、是非、連載で紹介した場所へ訪れて、ゆっくり楽しんでみてはどうだろうか。世界は広い!

 

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