「『生き物』が『食べ物』と呼べる状態になる一連の流れを、初めて目の当たりにした」“いのちをいただくということ”を体験するツアーに参加してわたしが感じたこと|Fork and Pen #006

Text: yae

2022.5.10

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※記事内には動物の肉を捌いているシーンの写真が含まれています。

こんにちは!yaeです。お久しぶりです。

連載「Fork and Pen」は、わたしが日頃感じてきた食や環境に対する疑問をもとに、その答えやヒントが見つかりそうな場所を訪れ、身近にある“食の選択肢”について学んでいくフードジャーナルです。今回、福岡県・糸島市と、ヘルスツーリズムを軸に活動する「MALS(マルズ)」とのコラボ企画で、「いのちをいただくということ」を体験するツアーにお招きいただいたので、その体験を綴っていきます。

▶︎この連載を始めたきっかけについてはこちら

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なにかがなくなると同時に、なにかが生まれている。わたしたちの生きる場所は、いろいろな連鎖で成り立っていて、失うことで続く命や循環があることを忘れてはいけない。

2022年3月、福岡県・糸島市と、ヘルスツーリズムを軸に活動するMALSとのコラボ企画で、「いのちをいただくということ」を体験するツアーに参加した。山に仕掛けられた罠にかかったイノシシが屠殺される現場を目撃し、ジビエ工房で精肉加工が行われ、「生き物」が「食べ物」と呼べる状態になる一連の流れを、初めて目の当たりにした。

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糸島市二丈片山

理解したつもりでいた命と循環

東京・世田谷区の、田舎でも都会でもないエリアに生まれたわたしは、高層ビルを身近なものと感じることはなかったが、かといって野生動物や自然を身近に感じることもなく育った。4年間の高校留学を終え帰国して、生まれ育った東京の街に対して持った違和感は、高層ビルの異常な高さや、近くに山や海がないことだった。

2021年夏、短期旅行のつもりで福岡を訪れた。繁華街が集結する福岡市内から電車で15分も揺られれば、深呼吸がしたくなるほどの緑が広がる。街と自然の距離間のちょうど良さに惹かれ、そのまま福岡に住み始めて半年以上が経った。

今回、福岡県糸島市で開催された企画「いのちをいただくということ」を体験する2日間のツアーを先導してくださったのは、MALSの立花叶子(たちばな かなこ)さんと高梨紗(こう りさ)さん、MALSとツアーを企画する一尾早希子(いちお さきこ)さん。みなさんとジビエ工房「tracks(トラックス)」へ向かい、代表の江口政継(えぐち まさつぎ)さんと合流し、早速罠がしかけられているという山へと向かった。

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ジビエ工房のtracks

てっきり山の奥地に仕掛けられていると想像していた罠は、軽いハイキング程度で登れる箇所に設置されていた。近くには民家や畑があるような場所だった。罠のしかけられた檻の中には、エサとなる米ぬかがしきつめられていて、透明のワイヤーが通されていた。エサに夢中になって下を向いているイノシシが、警戒して顔をあげるとワイヤーが頭部にひっかかり、扉が閉まる仕組みだ。

確認した罠にはイノシシはかかっていなかったが、罠の近くにはイノシシが通った形跡があり、野生動物が近くにいることがわかった。罠にかかっていたときには、その場で気絶をさせて大動脈をナイフで切るのだと、江口さんが説明をしてくださったが、それがどんな現場なのか、全く想像ができなかった。

日々絶えない野生動物による農作物や人間への被害。野生動物の命を奪うことだけが被害の解決策ではないけれど、狩猟をすることで守られる農林や人間の暮らしがある。そもそもなぜ、野生動物が山から街へ降りて来てしまうのか。わたしは人間による森林伐採だけが原因だと思っていたが、以前ほど人間が山に入らなくなったことも、イノシシが山と街の境界線がわからなくなる原因だと江口さんは教えてくれた。

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山に設置された檻

イノシシの臭みのなさは、土にまで遡れる

山を後にし、ジビエ工房のtracksに戻り、今年1月17日に獲れて熟成させたイノシシをいただくことになり、江口さんに肉の捌き方を教わった。スーパーで販売されているようなトレーに入っている切身の肉と明らかに違ったのは、骨つきの肉を捌けば、おのずとイノシシの体のどの部分を食べるのかがわかり、動物の命をいただいていることを意識させられることだった。

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建物の脇に生える雑草で飾り付け

普段の食生活で頻繁に肉を食べないので、おいしくいただけるかが少し不安だったが、肉を口にいれた瞬間に思わず「おいしい」と声に出た。山のなかで木の実などを食べているジビエは臭みがなく、いい土のなかで育った根菜を食べているような、自然の甘さを感じさせる。生産量を無責任に増やすような畜産業の家畜の肉ではなく、ジビエを食べることで人間界と自然界の循環に少しでもつながるのなら、ジビエがもっと流通するようになるべきなのだろう。それは、シンプルに口に入れて「おいしい」と思えた時に感じたことだった。

▶︎土から全てが始まっている。「食材のルーツ」を尊重し表現する若きシェフとソムリエ|Fork and Pen #003

命をかけ、命を奪い、命をいただく

1日目は野生のイノシシを見ることなく終わり、次の日に罠にかかっていることを願ってこの日は解散した。この時点でわたしはまだ、命について漠然と理解したつもりでいただけだったからだ。

翌朝、江口さんから「イノシシが罠にかかっている」と連絡が入り、山へ向かった。やはり、住宅街から坂を少し上がったような場所に、罠にかかったあとすでに意識を失っていたイノシシ2頭と、罠にかかって動き回るイノシシ1頭がいた。その1頭の左後ろ足に罠がかかり、今にも逃げ出しそうな勢いで暴れていた。近づきすぎると危ないからと待機位置を伝えられ、万が一イノシシの足から罠が抜けた場合の逃げ道も、イメージせざる終えないほどの緊張感だった。

威嚇の勢いが増すイノシシにゆっくりと近づき、鉄の棒で狙いを定めにゆく江口さんの姿から、彼もイノシシも命をかけているのが伝わった。江口さんが棒でイノシシを叩いて気絶させたと同時にイノシシに近づき、大動脈にナイフを入れ血が吹き出した。そのときの鳴き声は、まるで叫びのようだった。

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さっきまで暴れまわっていたイノシシ

その鳴き声を聞いて思わず「どうして殺さなければならないのだろう」と目頭が熱くなりかけたとき、昨日「おいしい」とたらふくいただいたことを思い出した。「かわいそう」と思う感情は、嘘ではないけれど、このときは少し違うように感じた。そんなことを考えている間に、イノシシの動きは止まっていて、それをみた瞬間、わたしは「この肉をいただける!」と思ったのだ。動き回るイノシシに対しては怖さがあったが、動きのないイノシシを見て、怖さはなくなっていた。それが、目の前の「生き物」が「食べ物」に変化し始める最初の瞬間だった。

この一瞬の出来事のなかで、自分では全く予想していなかった感情に変わっていた。本能的なものなのか、人間の欲なのか、潜在意識なのかはわからないが、それは紛れもなく、その時その場所で感じた感覚であり、自分でも驚くほどだった。潜在的な思考や情報だけではなく、その場の自分の体感で得た情報や考えを認識することの大切さを思い知らされた。

その後、わたしたちにイノシシをソリに乗せてトラックに運ぶよう江口さんに言われた。イノシシの重みや体温、獣臭さやズボンについた血も、目の前にあった命を感じさせた。トラックに乗せると江口さんはすぐに、肉の質が落ちないようにお腹の部分の血を抜き、氷をいれる作業を行なった。江口さんの手際の良さや、真剣な眼差しからは、わざわざ奪ってしまった命なのだから、きちんとおいしい状態にしていただくためなのだというのが伝わってきた。

屠殺現場を目撃し、心がまだ落ち着かないなかtracksに戻ると、先ほど獲ったイノシシの精肉加工がすでに行われていた。お湯でゆっくりと体を温め、毛を抜いていく。さっきまで暴れていた動物とは思えない光景だった。内臓を取り出し、食べられる部分と、埋めて堆肥にする部分を慣れた手つきで分けていくのを、ただただ見ていた。こうして毎日、命と向き合う江口さんの強さはどこからくるものなのかが気になった。

「命を知りたい」その一心で猟師を続けている

わたしが「誰かのためになるとはいえ、毎日罠を確認して、罠にかかっていたら屠殺して、その日のうちに精肉加工するのって、気持ちも体力も疲れそうです…」と江口さんに聞くと、「正直、しんどいですよ」と彼は笑いながら言った。畑を荒らすイノシシに困り果てたみかん農家さんに涙を流しながら頼まれ、「このままでは畑に入れない」と相談された時に、自分にできることはなにかと江口さんは考えはじめたそうだ。しんどい作業でも、猟師を続けられているモチベーションについては、「『命を知りたい』という一心です。鶏の屠殺を初めて体験したとき、怖がっていた自分が、鶏が抵抗するのを手で感じながら絞めました。そのとき、人も鶏も『命』は同じなんだと感じました」と話していた。

「しんどい」と話す江口さんは笑顔だったが、目の奥はなんだか悲しそうに見えた。いつも命と隣り合わせにいる経験から培われた強さの一部が少しだけ見えたような気がした。

野生動物をほおっておけば、人間の暮らしの被害は増えるだろう。自然が生産者であり、人間が消費者である関係性は、人間の暮らしと野生動物が共生していくなかで、偏りのない程度には必要なことだとも思う。大量に家畜を生産し消費するようなバランスではなく、人間界と自然界のできる限りの循環を目指したtracksのような場所が増えたら、地球上のさまざまな循環も整っていくのではないかと感じた。

命はいろんなところで循環している

このツアーに参加したあと、日々の生活のなかで常に「命」と「循環」を意識して過ごしていた。この世の現状すべてのことを理解することはできないけれど、自分のなかの誤魔化しや、誰かに聞いただけの情報で知った気になり、ほったらかす矛盾さは、なるべくなくしていきたいと思った。やっぱり、自分の感覚を頼りに追求しなければわからない。それは狩猟現場を見た時の自分の気持ちの変化のなかで確信したことだった。

わたしが自然から学ぶことはいつも、どの世界でもお互いが作用して動いていることだ。ジビエのイノシシの肉の臭みのなさは、イノシシが食べている木の実、その木の実は土の状態、土のなかの微生物の世界までと、すべて連鎖でつながっている。

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食を通して学べることが無限に広がっている。わたしたちが「生き物」を「食べ物」と呼んで暮らしているのなら、いろいろな命によって今の暮らしや、楽しさがあることを感じていきたい。豊かさとはなんなのか、豊かだと思うことの裏にはなにがあるのか。どこかで「当たり前」だと思っていたことを、ふと考える時間をつくってみてから、自分のなかの選択肢が広がった。そして、それもまたなにかの連鎖になっていることを願う。江口さんの「命を知りたい一心で猟師を続けてはいるけれど、まぁ、でもまだ、な〜んにもわからないですけどね」という言葉と笑顔を見たとき、人間として生きる意味を追求しているようにも見えた。

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yae

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1997年東京生まれ。高校時代の4年間をアメリカで過ごすなか、肥育ホルモンが投与された肉を日常的に摂取し自身の体の異変に直面し、食や生活について考えるようになる。旅行で福岡を訪れそのまま移住。

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