▶︎#00 吉本翔のインタビュー
▶︎#01 “Climate Crisis” 小磯竜也との対談記事
2021年6月に始動した環境問題をコンセプトに掲げたオンラインギャラリー「WORDS Gallery(ワーズギャラリー)」。Exhibition #02 “Biodiversity”では「生物多様性」をテーマに、コラージュを手法とするアーティストが参加した。そのうちの一人、コラージュアーティストでありながら、大学ではコンテンポラリーダンスを専攻しモデル活動も行う花梨(かりん)とギャラリーオーナーである吉本翔が、コラージュやアート、環境問題について、世代間での認識の違いなどを踏まえて対談した。
技法や素材が何かより、作品が伝えようとしていることについて聞いてもらえると嬉しい
吉本:WORDS Galleryが「生物多様性」をテーマにしたExhibition #02 “Biodiversity “では、コラージュのアーティスト4名を選ばせていただきましたが、花梨さんがコラージュを始めたきっかけはどんな感じだったんですか?
花梨:最近そんな質問を聞かれることも多いので、ルーツを考えてみたのですが、幼少期から小学生、中学生ぐらいまで絵本とか児童文学が好きで。内容もヨーロッパなどのファンタジー寄りのものが多くて、その頃の影響が出ているのかなと思っています。
吉本:ちょうど先日、テレビでコラージュアーティストの方が、「私にとってコラージュは、ファンタジーであり、現実逃避である」って言ってたのでまさにそれと繋がりますね。
花梨:そうですね、私のコラージュって何だろう?って思ったときに、幼少期のときに開いた絵本と同じように想像が掻き立てられて、ファンタジーなんだけど違う角度から物事の本質に気付くようなものなのかな、と。
吉本:実際にコラージュで作品を作り始めたのはいつ頃ですか?
花梨:おそらく中学校の頃に、美術の授業の課題で作ったものがそうだったのですが、そのときはコラージュとは認識してなかったですね。何を作ってもいい、という自由な教育だったので、自然とそれがでてきたのは覚えています。自分の作ったものがコラージュと認識できたのは、高校の頃ですね。それも美術の授業で、自分の好きな小説のポップを作るという課題があったのですが先生がすごく褒めてくれて、それがコラージュだと教えてくれました。そこからより興味を持って、美術予備校の課題では、もっと自分の絵と混ぜてコラージュをしていました。今のスタイルが完成したのは、美大時代に友人の舞台のポスターを依頼されたときだと思います。
吉本:それで入った美大では、コンテンポラリーダンスを学んでいたんですよね。
花梨:元々、舞台美術とか空間美術を学びたかったのですが、空間を作るうえで物体、もっというと人の身体が不可欠だと思い、昔からバレエをやっていたこともあり、ゼミでダンスを選択しました。
吉本:そういったダンスの身体性と、継続して行っていたコラージュの創作とは何か関連してくるものがありましたか?
花梨:何時間と踊り続けると身体の感覚が研ぎ澄まされてきます。自分の身体だけに集中していくと、世の中の溢れすぎている情報のなかで自分に適した情報量がちゃんと見えてきて、それをしっかり把握できると、また視野が広がる。
吉本:じゃあ、コラージュの制作過程には、ダンスを踊ることが入っていて、ダンスによって作品が固まっていったり、変わっていくことがあるってこと?
花梨:そうですね、たくさんあります。というか、本格的にちゃんとコラージュの作品を今のスタイルで落とし込めるようになったのは、ダンスを始めたからですね。しかも私のダンスは、同じ場所で何度もジャンプを繰り返すとか、想像しているようなダンスとは違っていて、その同じ動きを永遠と繰り返すことで、訳が分からなくなったり(笑)。でもあるところを超えると何かが見えてくる。視点が切り替わるところがあるんです。
吉本:座禅とか瞑想と同じ境地かもしれないですね。花梨さんにとってはダンスは自分と向き合うためのもので、コラージュはそれをアウトプットしていくものなんですね。同じ表現だけど、それぞれが内と外に向いている。
花梨:そうですね。私にとってはダンスは完全にパーソナルなもので、しかもコンテンポラリーダンスに出会ったことが大きかったです。バレエは美しいとされる動きも角度も決まっていて一種のルールのなかで踊るもので、自分の思想を開放して踊ったことはなかったんですよね。答えがないコンテンポラリーダンスに出会うことで、自由を知ったというか。もちろんそれは苦しいことでもあるんですけれど。
吉本:なんかそれって、デジタルコラージュとアナログコラージュの話に繋がるかも。花梨さんはデジタルでもアナログでもコラージュ作品を作りますが、その違いを聞いてみたくて。デジタルコラージュって永遠とミリ単位で一つの素材の配置を追求できるから、デザイン的にこれが答えですってバランスに置いちゃったりするのかなって。それってルールに縛られそうで、デジタルって自由に何でもできるけど、実は不自由なのか?みたいな。一方、アナログは不自由だからこそ、予期せぬ作品が生まれたりするんじゃないかと思うこともあるんですが、その点どう思いますか?
花梨:デジタルコラージュの自由はどこまでもいけちゃうから、逆に自分のなかでスタイルを作らないと定まっていかない部分はありますね。すると同じようなスタイルにはなってきちゃう。一方、アナログはスタイルが定まらなくて不安定になるけど、それが良くもなるし、悪くもなる。アナログコラージュの面白さは偶然性であり、あとは、他人が作った既存の素材を、その意図を私が変えて作品に落とし込めるということですよね。でもデジタルはゼロから絵を描くように、完全な自由だと思っています。高校生のときにPhotoshopを使うようになって、本当に何でもできるんだな!って。
吉本:そうか。やっぱりそういった捉え方ができるのはZ世代ならではというところもあるのかもしれないですね。生まれたときからデジタルが当たり前にあるのと、自分の世代はアナログからデジタルに移ろっているから、音楽にしろアートにしろ便利のなかの不便さを感じたりする。デジタルが逆に制約になると捉えてしまったり、デメリットをあげてばかりいたり。アナログ懐古主義的なものに固執してしまうこともある。きっとZ世代はフラットに捉えられるのかもしれないですね。
花梨:そうですね。やっぱり上の世代の人には「デジタルでやってるんだ」っていうネガティブな目線を持つ人もいますけど、ペンもPhotoshopも同じじゃない?って思います。手でやっていないって捉えちゃうかもしれないけれど、Photoshopも手をしっかり使ってるのでは?とか(笑)。それに、アナログで作ったものをデジタルに取り込んで制作を進めたりとか、デジタルを紙に出力するときにも紙の質感によって偶然性が生まれるので、デジタルはいいとこ取りのハイブリッドだと思ってますね。
吉本:なるほど。コラージュって既存の素材を使うということから、アナログとデジタルの違いがすごくでやすいのかな?と考えていたので、花梨さんの世代の人にその感覚を聞けるのはやっぱり面白いですね。じゃあ、もう一つ、制作工程についてはどうですか? アナログだと貼ってしまったらそこで決めなきゃいけないけど、デジタルだと永遠とコラージュし直すことができる。他のコラージュアーティストの方が、デジタルで作ると良くも悪くもこだわり続けて綺麗に作りすぎてしまうって話していたのを聞いて。そこの着地点ってどう見えてくるんですか?
花梨:私はアナログもデジタルも変わらないです。デジタルでも、その素材があるべき場所が見えてきて、ここもいいし、ここもいいなーなんてことはない。これはここ!っていうのがある。だから迷うことはないですね。性格的なものもあるかもしれないけれど(笑)。アナログだから、とかデジタルだから、とか変に分けて深く考えないようにしているかもしれないです。作品を観てくれる人も、デジタルとかアナログとか素材が何とか、もちろんそういうのも重要だけど、もっと作品が何を伝えようとしているのか、そこに込められたものについて聞いてもらえると嬉しいな、と思います。
環境問題について葛藤することは、自分の情熱を見直すきっかけになる
吉本:そうですよね。アーティストに作品について聞くときに、これって何で描いてるんですか?とか何でできてるんですか?って聞きがちですよね、自分も思い返すとめちゃ聞いてる(笑)。でも、前回の対談でも話したけど、正にWORDS Galleryは作品に込められたものを受け取る想像力や感受性を育むことを目指していて、コンセプトを掲げてるんですが、実際「生物多様性」というテーマを与えられて取り組む制作はどうでしたか?
花梨:制作する前に、自分が考えていることとしっかり向き合わなければいけないので、すごく自分のためになりました。自分の引き出しにないものを与えられて作るので、楽しかったです。
吉本:逆に難しかったこととかはありますか?
花梨:本来だったら感覚的に置きたいのに、なぜこれはそこに置かなければいけないのか?という理由付けをしちゃうところですかね。全部に理由が必要な気がしてきて、結構葛藤して作りました。でもそれが成長に繋がったところはあります。最終的にできあがった作品は、混沌としていると思います。それは私の環境問題に対する認識自体が混沌としていて、葛藤を抱えているので、ちゃんとそれが現れているなと。感情が入っているな、という感じです。普段の作品では綺麗に、すっきりと落ち着くこともあるので、それとは違いましたね。
吉本:与えられたコンセプトのなかだからこそ、作品に感情が解き放たれた、と。それこそ前回の対談のタイトルが、「『型に縛られない自由』より『型を知って得られる自由』の方が多い」だったんですが、まっさらな自由からは今回の感情は生まれなかったかもしれないけど、与えられたコンセプト・制約のなかだからこそ生まれた作品だったのかもしれないですね。環境問題自体に対しての、自分の認識に変化はありましたか?
花梨:環境問題に関心はあるほうなので、今までもニュースを読んだりとか他の人の発言に触れて、それに対して考えたりすることはありました。ただ、自分で作品を作ると、一度それが崩壊したというか。上辺だったのかなって思ったりもしたし、今までは自分とはかけ離れた環境問題に対して考えていたという感覚ですね。今回参加してみて、より自分の日々の生活に落とし込んで考えるようになりました。
吉本:そうやって自分の考えていたことが一度崩壊するぐらい、結局葛藤して選んでいかなきゃいけないですよね。例えば、自分が今直面していることでいうと、音楽レーベルもやっているのですが、ちょうど来年の新譜をリリースするのに、今までと同じようにCDを作るべきなのか?とか。CDはもはやその物自体の価値が薄れていて、特に環境問題と照らし合わせて考えれば、デジタルという代替品があるわけで。わざわざプラスチックや紙を大量に使うほど求められているものなのか?と。でも音楽レーベルとしての存在意義や価値を否定することにもなるし、CDから生まれた文化というのもあるわけだし。
花梨:私たちの世代が混乱してしまうのは、CDもそうかもしれないけど、環境問題を深く考えすぎると全てが否定的なものになるということなんですよね。いろいろなことを気にしすぎると、情熱を作れなくなる。もちろん環境問題を考えることは必要最低限のことだけれども、そのなかで情熱を持ってメッセージを伝えようとすることが大事ですよね。とらわれすぎると自分のなかの情熱が見えなくなってしまうと思います。
吉本:その通りですね、環境問題に対して葛藤することで、自分の情熱を見直すきっかけになると思う。例えばCDも、葛藤のなかでも情熱があれば、それでも作る意味があるCDの価値を作ろうとするし、伝えようとする。だから、一番重要なのは葛藤することであり、その葛藤が自分の情熱の純度を高めてくれる。
花梨:アートはそういったことを考える、きっかけを与えることができますよね。Z世代は前の世代より、考えるということをしてきてない気がします。情報量が多すぎて、そもそも分からない、ということがないというか。調べればすぐに分かってしまうし、地図だって手元に全て入っていて今自分がいる場所もすぐに分かるし。
吉本:確かにアートは答えがないものを、自分なりに考えて理解してみようとすることが大事ですもんね。
花梨:答えがないことを知ることが大事だし、それが全ての物事を前に進めるきっかけになる。
吉本:環境問題を含めた社会問題は全て、一つの答えがあるわけじゃないし、立場が変わればできることも違う。環境問題を訴えるのも、必ず環境に良い行動だけを押し付けたいわけじゃないはず。興味があるなら、全員今すぐビーガンになれ、と言われたら難しいかもしれないわけで、答えのないなかで自分なりの正解を見つけようとすることが大事で。
花梨:私のコラージュ作品も、まずはファンタジーを作ることから始めているのですが、空想すること、想像することをやめてはいけないと思っています。そこに世界が広がるポイントがあるから。
花梨(かりん)
1997年、東京都生まれ。多摩美術大学で勅使河原三郎からコンテンポラリー・ダンスを学ぶ。中学二年のころからコラージュ作品を創り始め、現在は、GINZAやFIGARO japonなどのファッション雑誌にアートワークを提供するなど、制作を続けている。また、モデルとしてファッションからライフスタイルまで、雑誌や広告で幅広く活躍。
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