「(若者として)消費されることを、自分の価値とすり替えない方が良い」haru. 能條桃子、AKIRAからのこれから社会に出る人へのメッセージ|NEUTRAL COLORS × NEUT 後編

2022.4.6

Share
Tweet
「TRANSIT」、「ATLANTIS」を生み出してきた編集者による集大成的な雑誌『NEUTRAL COLORS』が前号に続き「学校」にフォーカスした、第3号「特集:大人になって見る行きたい学校の夢」。NEUT Magazine は、NEUTRAL COLORSとのコラボレーションで本特集に掲載された「大学時代とはなんだったのかぶっちゃけ座談会」で誌面に載らなかったB面を前編・後編に分けてお届けする。

 「大学」に行くことを選ぶ理由はなんだろう。前編に続き、話を聞くのは東京藝術大学在学時に「HIGH(er)magazine」を創刊し、卒業と共に株式会社HUGを立ち上げたharu.、被災地でのボランティア活動に明け暮れていた大学時代を経て今では映像制作を手掛けるAKIRA、現在慶應義塾大学の経済学研究科で修士に通いながら、政治や社会の情報をインフォグラフィックスで発信する「NO YOUTH NO JAPAN」の代表を務める能條桃子。高校から大学へ、そして大学生活にフォーカスした前編に続き、後編では大学から「社会に出る」ことに焦点を当てる。大学を経た3人は、どのように現在の活動を始めるに至ったのか、就職活動の実態にも触れながら「大学に通う意味」について考える。

問いに出会った、自由になった瞬間

 それぞれに目的を持って大学に進学するも、待ち受けていたキャンパスライフは想像とは少し違っていた。そこまではよくある話かもしれない。しかし前回「馴染まず、浮いていたかもしれない」と語った3人に共通するのは、大学に通いながら、自らが企画者、あるいは発起人となって独自の活動を始めている点だ。それぞれの現在に繋がる活動にはどのようなきっかけがあったのだろうか。

AKIRA:大学に入学したとき、「高校までは答えを覚えていくということを習ったかもしれないけれど、大学は学問的に“なぜこうなのか”という『問い』を真剣に考えていくところです」と教授から言われて「え、いいんですか」と、心の中でガッツポーズしたのを覚えています。一度「なぜ授業は教室でやらないといけないのか。外でやればいいのではないか」とみんなで先生に話したことがあったのですが、そしたら大学のキャンパスの真ん中に拡声器を置いて「外で授業します」という先生がいたり。自分も変わった学生でしたが、自分以上に変わっている先生たちもたくさんいましたね。例えば「人はなぜ生きているのか」「なぜ戦争が起こってしまうのか」という問いも、「とにかく教室に座って話を聞け」という教育では、問いかけることも、問いに対する説明もできない。大学では自由に疑問をぶつけて「その問いは非常に面白い」と一緒に真剣に考えてくれる人がいたことに、自分は救われたように思います。そして学問を通じて問いについて考えることで、これまでの人類もずっと悩んできたんだと知れたことは僕の人生を自由にしてくれた感覚がありますね。

能條桃子:私はフラフラしていた大学1年生の夏休み、たまたま高校時代の友達に1人で行くのが不安だからついてきてほしいと誘われて、1ヶ月くらい学習支援のボランティアでフィリピンのスラム街に行ったんです。それまで受験のレールに乗って嫌々勉強しているという感じだったのですが、ボランティアに参加したことで大学に入れる人って本当にこの世界の中で一部でしかないんだなということに気がつきました。そこで「何のために大学に入ったの?」と向こうでお会いした日本人の人たちが毎日のように聞いてくれて。最初のいい問いをもらったように思います。最初はふざけて「嵐の櫻井君の母校だから」などと答えていましたが、「そういう答えではなく、他に何かあるんじゃないの」と聞いてくれて。私は日本教育の申し子みたいな感じだと思うのですが、求められると期待に応えたいから頑張ってしまうんです。受験もそうなんですけれど、やりたいことではなくてもゴールを設定されるとなぜか頑張ってしまう。でも「じゃあ本当にやりたいことは何だろう」と。そこで答えが出たわけじゃないんですけれど、考える大きなきっかけになりました。

haru.:私は小学校ぐらいのときから日本とドイツを行ったり来たりしていたから、訪れたことのない全然違う文化圏に行くことの繰り返しで、やっと自分が形成されてきた感じがあります。破壊と再生。毎回そこにフィットすることがめちゃくちゃ大変で、自分が操れるもののなかで知ることって絶対限られてると思うから、そもそもフィットできない前提がある。高校時代もシュタイナー教育の学校だったので、教科書もなくて自分で勉強するしかない。いつもビリから始めることが必要なのかなと思います。特にドイツ語を勉強したことで、日本語にはない言葉を知って世界の解像度が上がった感覚がありました。言葉の認識が広がると、自然に新しい現象が見えるというか、人の感情が違うふうに読めるということがとても面白くて、最近また言葉やコミュニケーションのことも学び直したいなあってふと思ったりします。

『何者』と就活。「社会に出る」ことについて

 東京藝術大学に通っていたharu.は卒業と共に株式会社HUGを立ち上げ、一橋大学院で政治を学んでいたAKIRAは映像制作を手掛ける。能條桃子は現在慶應義塾大学の修士で経済学を学ぶ傍ら、「NO YOUTH NO JAPAN」の代表を務める。大学を経て、ちょっと特殊な形で活動する3人は、どこか俯瞰して「大学生活」を観察してるようにも見えるが、実際に就職活動についてはどのように捉えていたのだろう。

AKIRA:就活で自分が何者かよく分からなくなっていく大学生を描いた浅井リョウさんの『何者』という小説が流行ったじゃないですか。実際に企業ごとに求められている人材が違うので、就活では求められる人格になりきらないといけないわけですよね。自分は就活もせずにすぐフリーで働き始めたので、エントリーシートを書いたことがないので小説の世界や友達の話のうえでしか知らないですけれど、50社や100社くらい受けても落ちることが当たり前の状況って、大丈夫なのかってシンプルに思いますね。リクルートサイトや大学のポータルサイトに登録している企業って、日本の企業の内のほんの一部だし、人手不足なところもたくさんあるし。最近コミュ力が就活で大事とかいうけど、結局それっていうことを聞く、はみ出さないコミュニケーションができる人って意味だなと思うし。本来は新しい人と出会うことってウキウキすることなのだから、自分で働きたいと思う職場を探してきて、就活も各々でやることができていたらあんな就活にはならないのではないかなと思いますね。特に大学4年生のときにショックを受けたのが、就活が忙しいからという理由でみんなゼミに来なくなったこと。やたらと口調も改まって変に意識が高い人が増えて、揃ってスーツを着ている光景は異様でした。「まだ決まってないの?」「そんなんじゃ社会で通用しないよ」と就活をしている同級生から説教されたりすることもありました。あのマウントの取り合いには本当に関わりたくなかったですね。

能條桃子:その人そのものは変わっていないはずなのに、就活も受験も、受かるとお墨付きをもらったように自信がつくのか偉そうに話してくる人もいて、急に人格が変わるんですよね。周りが就職活動をしているのを見ながら、その路線に乗ったら負ける気がするじゃないですけど、私は絶対その道に乗りたくないと思って、就活を放棄しました。でも日本にいたらやっぱりゴールを見せられると頑張りたくなってしまうので、きっと偏差値順で会社を受けたくなってしまって、その道に乗らざるを得なくなってしまう。それで、日本を離れようと決心して、デンマークに渡りました。留学した先の学校は成績表もなくて全寮制。答えも用意されていない。それまで日本では「慶応です」と言うだけで、だいたいどこでも話が通じて、どのNGOでも歓迎してもらえていたけれど、その肩書きが通用しなくなったのを経験したときに、最初はとても居心地が悪いと感じました。自分の価値が他にどこにあるのか分からなかったんですよね。けれど1週間くらい経つと結構適当に生きれていいなと思うようになって。本当に自分がやりたいことは何だろうと思ったときに「No Youth No Japan」の活動に至りました。ただ最近は「No Youth Japan」の活動を通して「いろんな社会人がいるんだ」と感じています。入社したら必ず3年はいなきゃいけない、という会社だけでもないんだと、いろんなやり方があることを知って、いつかちゃんと働けたらいいなという気持ちも出てきつつありますね。

haru.:私の場合は「社会に出る」って感覚がなくて、もともとすでに「社会にいた」という感覚。ドイツと日本で小4と中3を2回ずつ経験しているので留年していて、みんな2歳年下。自分は常に社会の中に存在してて、その状態がちょっとスライドしていくというか、フェーズが少しずつ変わっていくっていうだけの認識だったの、高校くらいから。だから社会へ1歩出るというより、最初から社会の中に自分は放り込まれていて、そこで上手くいったりいいかなかったりするのが当たり前で、とりあえずいつもビリからはじめていたから、大学を卒業するタイミングで自分の進路が何も決まってないことも、恐怖心は全くなかったし、人と比べることもできなかったですね。本当に今自分が何をしたいかを考えて生きてた。だからそういう意味で社会に出ることのポジティブさやネガティブさは特になかったかなと思います。学生と社会人というところで、何かをジャンプしてフェーズを変えるっていう感覚はずっとないかもしれない。

就活ではないけれど、大学院の面接の日に前面に絵の具のテクスチャがベタベタにくっついてる買ったばっかりの古着のパンツを穿いて行ったんです。お気に入りだし運気が上がりそうと思って着て行ったら、周りの人はみんなスーツ。自分って超常識はずれなのかなと一瞬思ったけれど、私は飛びぬけて見せようと思っているわけではなくて、お気に入りのパンツを履いていっただけ。面接官をしていた先生に「あなたが何をしたいのか分かりません」と言われたけれど、その先生から私と対話をしたいという姿勢を感じたことがなかったんですよ。だから「そもそも歩み寄ってくれたことないじゃないですか」と言ったら場が凍りついてしまって、終了しましたね。

人と自分の距離感。大学だからこそできること?

 就職活動の開始時期は年々早まる一方、在学中に自ら起業したり、コンペティションで学生の企画が採用される企業と大学とのコラボレーションなど、学生がますます社会にコミットしていく時代。学ぶことから働くことへの需要も高まる昨今、大学を経たからこそ、3人が今大学に通う人に向けて思うことがある。

能條桃子:私はやっぱり、消費されることを、自分の価値とすり替えない方が良いなと思っていて。それは企業がインターンをみんなしてほしいと言うからインターンに参加してみたりとかメディアも若い人の声を聞きたいから取り上げてもらうみたいな、そうすることでこれが社会にとって役に立っていることなんだとすり替えないほうがいい。「ここで必要とされているからそれでいいんだ」って思考停止しないで、自分が本当に何がやりたいのかというところに立ち戻らないともったいないのかなっていうのは日々自分にも思うことですね。特に就活が早期選考になって、大学3年生の5月から就職活動が始まってしまうから、大学生である時間が、ほとんど就職活動のための時間や社会に認められるための時間にならない方が結局有意義なのかなと思ったりします。

haru.:私も、能條さんの言った消費されることに価値を置かないということにはとても共感します。やっぱり自分のために時間が使える時代だからこそ、社会からの視点で見た関係性の構築ではなくて、「私があなたと何を話したいか」「私があなたとどんな関係性を築きたいか」と考える実験といったら相手に失礼かもしれないけど、大学はその試行錯誤がお互いできる環境でもあるのかなと思っていて。私はその人のためとか、その人となら一緒にやりたいと思ったらいくらでも頑張れるタイプなんですが、就職活動となると対象が企業で、「あなた」って何だろうととてもモヤモヤしていたから、自分が企業に入るというビジョンが見えなかったのかもしれない。社会人になって会社に勤めると、すでに関係性に名前がついていることが当然で、単純に「私はあなたを人間としてとても好きであなたに興味がある」というような、何かの名前のついた関係性を飛び越えて人と対話することって結構難しいと今感じているから、名前のない関係性と言ったら変かもしれないけど、「私とあなた」という距離感での対話することを今から意識しておけたら良いかもしれません。

AKIRA:一番は自分との距離感。大学時代は東日本大震災が自分のなかで結構大きくて、亡くなった人たちの話を聞いてやらなくてはいけないことがたくさんあると思いが強すぎたけど、自分にちゃんと向き合うこと、自分のことを愛することができたら、もう少し人にも自分にも優しくできたのかなと今は思います。大学ってやっぱり本当にこの社会にとって意味のない問いや、考えなくていいと言われていることに真剣に向き合える場所。学問は、人の話を聞いたり、人と話したり、もうこの世にいないたくさんの人たちの言葉に丁寧に向き合えるチャンスでもあると思います。だからこそ、いわゆる社会人と呼ばれる人たちが社会について考えられていない悲惨な現状があるなかで「考えてもいい」ということに自信を持ってほしい。あと、もう一つ。自分が大学を卒業してからとても反省したのは、大学に通っている人はこの日本の中で半分くらいしかいないということ。気がついてみたら自分自身、大学を卒業してからほとんど大卒の人しか会ってないんですよ。けれどそれって本当に社会の一部のコミュニティで、大学や社会というのは本当に同質性の塊なんですよね。「スタンダード」と呼ばれていること自体にも、同質性のベールのなかにあるかもしれない。大学もやっぱりそういう側面が強くて、本当に大事なものに向き合うときだからこそ、そのバイアスも意識しないといけないと思いますね。

 あらゆる選択肢があるなかで、大学に通うことは一つの選択に過ぎない。だからこそ、どんな大学生活を送るのかは、各々が何を考え、どのように行動するのかにかかっているように思う。そして社会との緩やかな境界を前にした高等教育機関という特殊な環境だからこそ、世の中にある矛盾や構造を垣間見て「社会」を俯瞰して捉えることもできるかもしれない。3人の会話から見えてきたのは、そんな大きな枠組みのなかで出会った問いと、自分はどのように生きていくのかという選択だ。今大学に通う人も、これから進学する人も、卒業した人も、通わなかった人も、あなたにとって「大学」はどんな場所だろうか?

Share
Tweet
★ここを分記する

series

Creative Village