作家の雪下まゆによる連載。毎回一冊の本を通して、絵では伝えられない自分の話をTwitterのつぶやきではできない、もっと濃い形で読者と共有していく。
今回がNEUT Magazineでの連載最終回となる。#001で話した通り、私は人はなぜ生きるのかとか、生きている理由とか、そういったことで毎日悩んでいるような子どもだった。
これまでの連載では、それらの問いのヒントになるさまざまな分野の本を取り上げてきた。
最終回では、生命科学研究所教授小林武彦さんの『生物はなぜ死ぬのか』という本を取り上げたいと思う。
#004の「コンプレックス」についての回で書いた通り、全ての人間が等しく同じ価値を持つことは、理論的には理解できてもやはり人と比較して、それを自分に納得させるのが難しいことがあった。そんなときふと、個々の人間は大樹が育つため地にはった数多の根のうちの一つのようなものにすぎないのかもしれないという考えが浮かび、妙に腑に落ちたことがある。つまり人間という種は、生物全体が生きるためのサイクルに組み込まれているにすぎないということだ。
それからは、嫌なことがあったときにはその規模で考えて「まあ割とどうでもいいな」と思えるようになった。
そして最近、『生物はなぜ死ぬのか』という本に出会い、この考えはあながち間違いではなかったのかもしれないと思った。
理論的な解説と合わせれば、私と同じように考え過ぎてしまう人たちの気が楽になるかもしれないと思い紹介させていただくことにした。
本書ではなぜ生物が死ななければいけないのかの意味が、生物の誕生から絶滅、多種多様な生き方と死に方、ヒトだけが死を恐れる理由などを通して理論的に語られている。
第一章では生物がどのように誕生したのか、ビックバンまで遡り解説されている。
地球ができたばかりの46億年前、化学反応を引き起こしやすい場所で生じた有機物が、長い時間をかけて「作っては分解して作り替えるリサイクル」により、自己複製可能な遺伝物質に変化した。やがて「自らアミノ酸を繋ぎ合わせてタンパク質を作る生物必須のアイテム」への変貌によって生物の歴史が始まった。
これはどういうことかというと、私たちはなんとなく、キリンの首は「高い木の葉を食べる『ため』に首が長く進化した」というように、生物は目的を持って進化してきたと考えがちだが、実際には個体差があるなかから「たまたま」首の長いキリンが自然に適合して今の姿になったということ。つまり遺伝情報が激しく変化し多様な試作品が作られたなかで、変化する環境下で「たまたま」適合し存在し続けられた生物だけが進化してきたのだ。
この「たまたま」の確率は、「25メートルプールにバラバラに分解した腕時計の部品を沈め、ぐるぐるかき混ぜていたら自然に腕時計が完成し、しかも動き出す確率」くらい低いのだという。
そんな奇跡の確率でこの宇宙が成り立っていると考えるととてもロマンチックだが、そんな奇跡の確率で苦行とされる人の道を歩まなければならなくなってしまったのは不本意だなとも思う。
小林先生は「作っては分解して作り替えるリサイクル」を「ターンオーバー」と呼び、「生物が死ぬ理由」を解き明かすための重要なポイントの一つとしている。
では、そもそも生物はなぜ絶滅するのか。
「ターンオーバー」という言葉で私たちが身近でよく耳にする機会があるのは「肌のターンオーバー」ではないだろうか。古い細胞が失われ新しい細胞に入れ替わるという大まかな認識は私たちのなかにあるはずだ。
同じように生物もまたターンオーバーを繰り返し、古い細胞が失われるように「絶滅」によって新しい細胞……つまり種が生まれるのである。
白亜紀の大絶滅では巨大隕石とそれに伴う気温の変化の影響により恐竜など生物種約7割が地球から消え去り、その影で生き延びたのは小型の生物だった。彼らは恐竜の死体などから栄養を得て、体が小さい利点を生かして穴の中などで寒さや暑さを凌いだ。そのなかには私たちの先祖である小型の哺乳類もいた。
生命の誕生には個体の死や種の絶滅といった「死」がいかに重要であるかが分かる。つまり、ここで言えることは「死」も進化が作った生物の仕組みの一部だということだ。
種の存続の「ため」に進化し、細胞が衰え残念ながら死んでしまう、という何となく私たちが連想するような生物のあり方と真逆の事実に心を惹かれないだろうか。
また、多様な生物のさまざまな死に方についてこう述べられている。
遺伝子の変化が多様な生物を生み出し、死や絶滅によって生物は進化をし、その多様性に合わせてさまざまな死に方を獲得してきた。「進化が生き物を作った」と「生き物の死を進化が作った」は同義といえることが分かる。
このように生物は食物連鎖のなかで捕食したり食べられたり、寿命による世代交代によって生と死を繰り返すことで生物界の多様性をうながしながら、安定性を保ってきたのである。
理論上では、「死」も次の世代へのバトンタッチであるといったポジティブなものに捉えることができるのだが、ヒトの場合は違う。
配偶者や近親者の死は、ヒトが受ける最大級のストレスであり、死に対する恐れは非常に強い。これはヒトが相手に同情したり共感する感情が霊長類や大型哺乳類のなかでも抜き出て強いからである。
自分だけが生き残ればいいという能力よりも、集団や全体を考える能力のほうが重要であり、選択されてきた結果がこの悲しみや恐れという最も人間らしい感情なのである。
死の恐怖を少しでも先延ばしにしたい私たちは太古から長寿の方法を知りたがる。ここで先生は同じサイズのげっ歯類に対して10倍以上長く生きる「ハダカデバネズミ」から二つの長寿のヒントを得られると述べており、この提案は日本が抱える問題と共通点を持ちその対比が興味深いものだった。
一つ目は子育て、もう一つは働き方である。ハダカデバネズミは女王のみが出産し、あとは分業・協力してストレスを軽減しながら集団を維持している。人間の場合女王を作るわけにはいかないが、産むことを選択したカップルに対して教育費の負担や手当など、社会全体としてのサポートを手厚くし、親個人にかかるストレスを軽減する。
二つ目は働き方についてだ。ハダカデバネズミに限らず野生の生き物の多くは老体個体の体力も死亡率も若年個体とほぼ変わらないという。つまり死ぬ直前まで働き、ピンピンコロリで死んでいく。人間社会とは異なり、老体個体を支える集団のコストもないエネルギー効率のいい「総活躍」社会を形成している。少子高齢化で若者の負担が増えている今、世代間の負担バランスを取るために歳を取ってもやりたい仕事だったり、働きたい人は年齢に関わらず働けるようにすることで生きがいを作れば、長生きが楽しくなる社会が築けるかもしれない。
でも仮に、健康寿命が延びて理想的な人生を送れたとしても、やはり死の恐怖を免れることはできない。これをどう捉えればいいのか。
ここまで生物共通の「死」の意味について考えてきた。生き物が生まれてくるのは偶然だが、ターンオーバーのなかで、壊して次を生み出すために死ぬのは「必然」なのだ。
最初に、私たちがただ大樹の根の一部に過ぎないと思うことで気が楽になるという話をした。
同様に、この命が全生物のターンオーバーのなかの一部であるという知識を論理的に取り入れ、自分自身を大きなサイクルのなかで生きる一つの細胞に過ぎない存在として捉えることで、必然的にいつか死ぬという事実を受け入れ、もっと気軽に生きることができると思う。考えすぎる私たちにはこの考え方が丁度良い気がする。
広大な宇宙のなかで、狭い日本、そのなかの狭いコミュニティやSNSで私たちは苦しむ。
この連載を始めるにあたって受けた取材記事のなかで、悩みをDMで送ってくれた方たちの話を書いた。みんな、人からの加害を正面から受け止めてしまったり、誰かの苦しみに引き摺られてしまったり、幼少期の経験が今も心を離れなかったり、理由はさまざまだけど、人一倍共感力が高いからこそ悩んでいるのかもしれないと感じた。私もそのうちの一人だ。
これまでの連載で、生きていくなかで必ず直面する人間の持つ根源的な問題について取り上げてきた。
人間は、幽霊のような得体の知れない存在を恐れる。対照的にこれまで取り上げてきた問題については論理的に追及すればその原理を理解することはできる。
本を読んだところで結果的には、死の恐怖を100%克服することも、個体差を持って生まれた脳の作りを変えることも、コンプレックスが全くない人間に変わることも不可能だが、原理を理解した私たちは以前とは絶対に違う人間になっているはずだ。
この先の長い人生、苦しみや絶望を避けて生きていくことはできない。
そのとき、生きるのをやめる選択肢ではなく同じように苦しみ、考え抜いて生きてきた先人たちの知識に助けられながら乗り越えていきたいと思う。