日本には、日本国内と国外のもの(内と外)をわける「島国」的な特徴が一部に残っている。また遠く離れた東欧の国ルーマニアにも、外からの情報が遮断されていた時代が長く、閉鎖的な空気が未だに残っているという。東京藝術大学を油画専攻首席、美術学部総代として卒業し現在は同大大学院に通うスクリプカリウ落合安奈(おちあい あな)さんは、そんな日本とルーマニアにルーツを持ち、そのバックグラウンドに少なからず影響を受けたアーティストだ。
今回Be inspired!は、そんなバックグラウンドからマイノリティや区別や差別、偏見に興味を持ち、作品でのアプローチを試みている彼女に、2020年にオリンピックを控えた日本が異なるバックグラウンドを持つ人たちが大勢来日するにあたって何に気をつけたらいいか、知らない文化についてどう想像力を働かせるべきなのか聞いてみた。
意外にも共通点のあった、日本とルーマニア
日本は江戸時代に国民に出入国制限をかけた“鎖国”をしていたことがあり、現在も「島国」であることから、外から入ってきたものに対して不寛容である側面がある。“日本人”とそれ以外を極端に区別したり、日本人の多様性を受け入れられなかったりするところだ。彼女自身が幼い頃に、外見的特徴や仕草が“日本人らしくない”と、いじめを受けたことがあったのもその一例かもしれない。
一方ルーマニアは、1945年から1989年まで共産党一党独裁の社会主義国で、秘密警察が国民の思想や言論を監視し、統制が図られていた。そのような過去があるがゆえ、経済的に遅れを取ったという否定的な面はあるが、だからこそ中世ヨーロッパの趣が残っており「ヨーロッパのタイムカプセル」や「ヨーロッパ最後の中世」とも称される。
そんなルーマニアに滞在していたときには、アジア人を軽視していて差別的でありながら褒めているつもりで「アジア人だけどルーマニアの血が入っているから美しいんだね」と言われたり、他のヨーロッパの国を旅しているときにはルーマニアのルーツを持っていることを話すと「ロマ*1の多い国か」と言わんばかりに苦い顔をされたことがあったりした。
(*1)ヨーロッパを中心に分布している少数民族で、多くの地域で「よそ者」として排除されてきた歴史がある。現在も差別の対象となってしまっている彼らは、ルーマニア国内に多く暮らしている
彼女の個人的な経験をふまえてわかるのが、どこの国においてもマイノリティ(異質なもの)が奇異の目で見られることが少なからずあることや、「無意識の差別」が存在すること、そして差別が連鎖していること。そんな「異質なもの」に対する反応は、人間の成熟度にも関わってくるかもしれない。「大人のほうが自分と異なる人に対する振る舞い方を比較的心得ているが、子どもの場合は強く反応しやすい」と彼女は話す。安奈さんは、それらの反応を人間が「異質なもの」を目にしたときに本能的に行ってしまう「生理的な反応」だととらえて初めて興味深く見られるようになったという。
「個人的な経験」を、どう普遍的なものにするのか
二つの文化的アイデンティティを持っていることは、彼女にとっては自分自身を形作る大きな要素だ。したがって、必然と生み出す作品にも、そんなアイデンティティを持つうえでの葛藤が反映されてくる。だがそんな思いをストレートに伝えようとすると鑑賞する側が「自分には関係ない」と関心を持ってもらえなかったり、壁を作られてしまったり。そんな反応を受けることなく理解してもらえる作品の追求が「永遠のテーマ」だと、彼女は話していた。美術界においても、作者のテーマが普遍的なものに落とし込めなければ作品として未熟だと評価されることもあるそうだ。
“ハーフ”に対する問題は日本で起きているもので、本当は当事者以外にも関係がないわけではないはずです。日本だから起こってしまっている問題なのに、その問題を見ようとしなかったり、自分のこととして考えられなかったりするだけなんだと思うんですよね。それをどうやって考えてもらえるように伝えるかを日々作品を作りながら考えています。
彼女にとって美術は、言葉で説明できない感覚や思いのはけ口としても機能している。それを含めた自身のテーマに興味を持ってもらえるよう、幾重にも工夫を重ねた作品を使い、当事者ではない人たちが気づいていないところまで思いを馳せられるようなきっかけを作ろうとしているのだ。たとえば『明滅する輪郭』と名付けた作品では、空気はどこでもつながっていて、他人が吐いた空気を自分が吸い込むことで「相手の成分」が自分の一部になる可能性があり、相手にとっても同様だということを表現した。自分と相手の“境界線”は曖昧で、自分は当事者ではないと思える事柄だって実際に関係ないとは限らないと暗示しているようだ。
ビニール袋を人の顔に縫い付けることで「呼吸」を可視化させている
“異なる価値観”に触れないと気づけない問題
安奈さんに、日本の「多様性に対する認識の欠如」についてどう考えているのかを聞いてみると、自分と異なる価値観に触れてみないとわからない問題が多いという。たとえば、友人にベジタリアンがいて一緒に食事に行く機会があれば、選べるメニューが少ないというベジタリアンが直面する問題や、まわりがベジタリアンの友人のことを配慮して店を選ばなければならないというちょっとした問題にも気づく。
安奈さんがフランスを訪れたときには、現地の学生と共同生活をすることがあり、体調を崩していたにもかかわらず彼らの文化である食後の団欒の場を離れようとしたら一部の学生から非難されたことがあった。相手の文化に従わなかったことにより起きる小さな摩擦を、彼女はリアリティを持って知ったのだ。
そのような経験から、自分の価値観は当たり前ではないと知ることが、他者の立場になって考えるように想像力を働かせることや相手を傷つけることのないよう細心の注意を払うことに自然とつながったという。
自分の価値観を日本国内だけで決定づけるのは危険だと思う。多様な文化に触れてみて自分の価値判断を、叩いて伸ばして鍛えてじゃないですけど、そうやって拡張していきたいという気持ちがあります。みんながそうできるわけじゃないですが、まずはアンテナを張って関心を持つことが大事だなと。関心を持たないと知ることもできないし。
2020年の東京五輪は、日本が変わるきっかけに
開催まで1000日を切った2020年の東京五輪。開催に合わせて増えるのが、外国から日本にやってくる人々。深く関わることがないにしても、東京にいれば何かしらの形で彼らと接触することはありそうだ。そんなとき、無意識のうちに日本の決まりを押し付けてしまうおそれがある。そこで「言わなくてもわかるでしょ」と彼らの行動の“誤り”を否定するのではなく丁寧に教える姿勢を持ったり、ルールを見えるかたちにして注意書きを書いたりする必要がある、と彼女は指摘する。
日本にいたら何が日本独自のルールなのかってわからないかもしれないですが、ルールを知らない人に対してルールからそれた瞬間に「何でそういうことをするの」と否定から入るんじゃなくて、異なる文化の人にルールを伝える努力をするべきだし、自国の文化を客観視して学んでいくという感覚が重要じゃないかな。
だが、彼女はオリンピックに合わせて大勢の人が外から日本にやってくることに対して、日本の人たちがうまく対応できないのではないかと大きな心配をしているわけではないようだった。むしろ、外から来る人たちからポジティブな影響を受けると考えているのだ。それは自分の知らない価値観に触れないと自分の考え方や行動について客観的に見られないことが多いが、オリンピックが開かれたら外からの目が入ってきて、個人としても社会としてもこれまでになかった気づきを得るきっかけになるのではないかという見方。
街に英語表記の表示を増やすなど、現行の懸念点に対する対応も大切だが、始まってから見えてくる不足をどう自発的に補うかという点により目を向けるべきなのかもしれない。
※こちらはBe inspired!に掲載された記事です。2018年10月1日にBe inspired!はリニューアルし、NEUTになりました。