作家の雪下まゆによる連載。毎回一冊の本を通して、絵では伝えられない自分の話をTwitterのつぶやきではできない、もっと濃い形で読者と共有していく。
改めて初めまして。作家の雪下まゆです。
なぜこの連載を始めたかは#000でお話しした通りですが、絵では伝えられない自分の話をTwitterのつぶやきではできない、もっと濃い形で皆さんと共有したいと思ったからです。
私たちが日々抱えている問題って、一つの分野に絞ってみても結構解決しないことが多くて、多方面から物事を見られるようになると客観的に問題と向き合うことができますよね。ですから、本を紹介することでそういう向き合い方の手助けになるような連載になるよう心がけていこうと思っています。
私はこれから紹介していく本の分野の専門家ではありませんが、新しい発見や学びを一から楽しみつつ、自分のこれまでの人生を交えてお話しできればと思っています。
さて、初めての連載第一回は脳科学の本にしました。
脳科学を一回目にした理由はこのあとの連載で触れる「メンタルヘルス」「社会学」「哲学」といったテーマについて考えるとき、身体のこと抜きにしては語ることができないからです。なぜこれらについて考えるに至ったかはそれぞれの連載と共にお話していこうと思います。
私は、人はなぜ生きるのかとか、生きている理由とか、そういったことで毎日悩んでいるような子どもでした。
悩み続けた結果、人間は特別な存在ではなく生物として子孫を繁栄させているだけに過ぎない、アリに生きている理由を具体的には求めないこととなんら変わりはないという結論に行き着きました。しかし、生物の最終的な目標が子孫を増やすことだとした場合に、人間だけが持つ「心的能力」はどうして必要なのかと疑問に思うことがあります。のちのメンタルヘルスの回で触れますが、自分は定期的に気分がどん底に沈んだり、不注意で生活に支障が出たりする性質があり、その度にこれってどういう意味があるんだろう…とよく考えます。
また学生時代はキリスト教一貫校の学校で育ったため、自分や周りの多くは信仰心を持っていなかったものの、理科で進化論を教えられる反面、宗教の授業では神の天地創造を教わってきました。正反対の教育を受けるなかで疑問は膨らみ、実際のところ人間はどこから生まれたのか、宇宙とは、自分の意識とは、心とは何かについて考えるようになりました。
今回選んだのは心理学の教授である、リサ・フェルドマン・バレットによる『バレット博士の脳科学教室7 1/2章』。書店で今回の連載に合う本を探していたところ、分かりやすそうだなと思い手に取った本です。
本書は、前半に生物の進化の歴史から脳の機能や仕組みについて解説し、後半は脳の働きによって生み出される社会や他者とのあり方について語られています。
日々私たちはさまざまなことで思い悩み、一時的な悩みが人生を左右するような絶望的なものに感じたり、その時々のコンディションでいつも見ている風景が全く違うものに見えたりしますが、このような状態全てを支配する頭蓋骨に包まれた小さな物体の謎を本書では読み解くことができます。
前半のLesson1/2では「心的能力」の必要性について語られています。
例えば動物は泳ぐ、走るなど、資源を費やす活動をするごとに身体の予算(エネルギー)の口座から預金が引き出され、また、食べる、眠るなど、資源を補給する活動をすれば預金を増えるなどの「身体予算」を行なっており、この管理仕事を担うのが脳の役割となっています。
そして考え・感じ・想像し・理解するなどの人間の「心的能力」は、健康な身体を営むために「身体予算」を管理するという重要な任務を遂行した成果の一部として得られたものであるそうです。
どうしてか人間というものは、感情的な能力に特別なものを感じがちです。でも、例えば鳥には羽があり、魚は海で暮らせる、といった能力は私たちからすれば特殊能力ですが動物たちにとってはそれぞれの環境で生き残るために特化した当たり前の能力です。同様に人間の「心的能力」も特別なものではなく、私たちなりの効率的な環境適応の道具にすぎないのです。
よく、大海原を見たり星空を見たときに私たちはこんなにちっぽけな存在で日々悩むことが馬鹿馬鹿しくなるといった考え方を耳にします。私もそういった情緒に浸ることがあるのですが、人を日々左右する「心的能力」はそれを補うために進化したただの道具であると考えると、「大海原・星空説」の裏付けとなりより心が落ち着く気がします。
私は日々の生活のなかで周りの環境や見ている景色はいつもとほとんど変わらないにも関わらず、誰かに嫌われているのではという勘ぐりや、自分は何もうまくいかないのではという思い込みに陥ることがあります。最近、いかにそれが自分の精神状態や体調に左右されうるものであるかを分かりやすく理解できるような出来事がありました。
友人のバイクの後ろに幾度か乗せてもらった経験があるのですが初めて乗ったときからずっと、楽しくて気持ちが良くて目的地に着くとがっかりするくらい心地の良い時間だったのに、精神のコンディションが悪い状態で乗ったときにたった一度だけ、高速に過ぎていく目の前の道路のスピードに混乱し、次の交差点から車が走ってきて自分が飛ばされるのではとか、思考の回転が止まらなくなって、今すぐに下ろしてほしくなるほど恐ろしい気持ちになり軽度のパニックに陥ったのです。
本書ではこういう例があります。
「のどが渇いて水を一杯飲んだときのことを思い出してみよう。最後の一滴を飲み干してから数秒以内に、あなたはいくぶん渇きが癒やされるのを感じたはずだ。いかにもありふれたできごとに思えるかもしれない。だが、実は水分が血流に入るまでにおよそ20分かかる。つまり一杯の水が数秒いないにのどの渇きを癒せるはずはないのだ。では、何がのどの渇きを癒したのか?それは<予測>である。脳は、水をいっぱい飲み干すという行動を計画して実行すると同時に、その行為によってもたらされる感覚的な結果を予期する、それによって、水分が血流に直接的な影響を及ぼすはるか以前に、あなたはのどの渇きが癒やされるように感じるのだ」(4章, p096)
つまり脳は、水を飲んだらのどが潤った!といった過去に蓄積してきた膨大な経験の記憶や身体の内部で生じた記憶を外界のデータと結びつけることで、見るもの、聞くもの、かぐもの、味わうもの、感じるものを生んでいるというのです。
このプロセスを<予測>と呼ぶそうです。
この<予測>は、人間の防衛反応としての役割を果たしています。危険な状況のときには過去のデータと外界のデータの組み合わせで瞬時に結果を<予測>し行動に移す仕組みを日々繰り返しているのです。
しかしバイクを運転し慣れた友人が通い慣れた道で事故を起こす確率は低いにも関わらず、時には私の経験のように脳はこの判断を誤ることがあるのです。自分でも予測不能なパニックや恐怖に陥ったとき、この<予測>プロセスは誤った判断を起こすということを知っていることで悪い結果から少し身を守ることができるのではないかと思っています。
少し事例は変わりますが、<予測>はこのような場合にも実行されます。
「芸術作品、とりわけ抽象芸術は、人間の脳が経験を構築しているがゆえに成立しうる。ピカソの手になる立体派の絵画を見てそこに人間の形状を見出せるのは、あなたの脳が、抽象的な要素の理解を可能にしてくれる、人間の形状に関する記憶を持っているからにすぎない。美術家のマルセル・デュシャンはかつて『芸術作品の創造において、アーティストは50パーセントしか役割を果たしていない』と述べた。残りの50パーセントは鑑賞者の脳が果たすという意味だ」(4章, p093)
この引用は私もいち作家として非常に心当たりのあるものでした。
私は絵を描くとき描く人物の表情に明確な意志を感じさせないようにしており、理由はそれが50%しか伝わらない表情だとすれば欠けた残りの50%は鑑賞者が無意識に自分の経験や今の気持ちを投影しやすいというためです。鑑賞者の記憶や経験を通した新しい解釈を自分のなかに取り入れ、新たな視点で作品の見解を深めることで今後の制作の材料の一部にしています。
簡単に私の経験を交えいくつかの事例を引用させていただきました。
私の思考がぎゅっと狭くなって苦しくなったときにこの本が、どうしてそういう思考に陥るかのプロセスの手がかりになって結果的に少しだけ生きやすくなりました。#000でもお話しさせていただいたように、私がつぶやいた悩みに共感してDMを送ってくれたたくさんの人や、不安を感じやすい人の心が少しでも軽くなるのでは、ということで紹介した一冊です。
DMを読んだときこんなにも多くの方が私と同じように悩みを持っていることに気づいたことが自分自身の心強さにもなったため、今後も連載を読んでくれた方が悩みを抱えているのは自分だけではないと感じてくれるような形にしていきたいと思っています。